エロコンテンツは女性の地位を貶めない、むしろ高める。
このブログ記事は、“男性向けのポルノやセクシーなグラビアなど(以下便宜的にエロコンテンツと呼ぶ)が女性の社会的地位を貶めることに繋がっている”というような指摘がいかにおかしいかを論証し、むしろエロコンテンツは女性の社会的地位向上に貢献する存在になりえると提唱する文章である。 本稿では第1節で、いったんエロコンテンツの話から離れて女性の社会的地位を貶めているものは何なのかを探る。第2節で「エロコンテンツは一般的に女性を貶める」という説を反証し、第3節では、エロコンテンツがむしろ女性の社会的地位を向上させる可能性を指摘したい。
もちろん筆者は女性向けポルノの存在を認識しているし、それが女性の社会的地位にもたらす影響を論じるのは興味深いが、ただでさえ論点が拡散しすぎているので、ここではあくまでも男性向けのポルノやセクシーグラビアだけを「エロコンテンツ」と定義したうえで、男性を喜ばせるエロコンテンツと女性の社会的地位との関係に焦点を絞ることとする。
第1節 女性の社会的地位を貶めているのは何なのか
- 結果の男女平等を目指すことはかえって女性の自由意志を阻害する
日本における女性の社会進出は欧米諸国と比較して遅れているとしばしば指摘されるが、その手の社会数値指標は単純に国会議員や企業の幹部に女性が占める割合といった結果の平等を計測していることが多い。日本では教育の機会は男女平等に与えられているし、女性が国会議員や企業の幹部になる上で障害となる法制度はない。むしろそのような地位を目指す女性たちが一様に口にするのは制度的な障害ではなく「ガラスの天井」と言われるような見えない差別である。だが、「ガラスの天井」は“上昇”を志向した者だけがぶつかるものである(議員や幹部を目指すことを“上昇”と呼ぶべきなのかはともかく)。「ガラスの天井」にぶつかる女性だけに着眼しても社会全体の男女平等を論じたことにはならない。たとえば、もし国会議員になりたいと思う人が女性には0.01%しかいなくて男性には0.1%いたとしたら、たとえ男女平等が実現した社会においても国会議員の男女比は半々にはならないという事である。
では国会議員を目指す女性を増やすべきか?社会全体の利益という視点で見れば、女性の意見が国会にもっと反映されるように女性議員を増やした方がいいだろう。だが個々の人生という視点から見ればそうとも限らない。職業選択はその人の生き方の問題なので、周りが「女性の地位向上のためにあなたは議員を目指しなさい」と言うわけにはいかない。
つまり、結果の平等だけを目指すことは個々の女性の自由意志を軽視することになり、かえって女性の地位を低下させるということである。結果平等主義が主張に通底する論者はフェミニストの皮を被った女性の敵であるということは、ここではっきりさせておく。
- 2種類の非制度的バリア ~「歩きだした結果ぶつかる壁」と「歩き出せなくしている壁」~
女性を公然と差別する制度が存在しない社会では「ガラスの天井」などの目に見えない障害、つまり非制度バリアの解消に取り組むことが望ましい。
「女なら結婚したら家庭に入って仕事をやめろ」「家事や育児は女がやるべき」「その歳でまだ良い相手もいないのか」「女のくせにはしたない、慎ましくしろ」女性ならこれらの不当な圧力を公然とかけられた経験があるのではないか。これらのジェンダーバイアスが、制度とは異なる次元で女性の可能性を抑圧するのである。
国会議員の例えで言えば、自分の意思で議員を志したのに「女のくせに男にたてつくのか、やめておけ」「女に政治は無理だ」などと言われて、男なら得られていたであろう支援が得られなかったとしたら、これは非制度的バリアだ。
ただ、この手のバリアは、一度自分の意志で茨の道を歩むと決意したという意味では、本人が頑張りで困難を突破していくことが十分ありえる分まだマシである。これが「歩き出したためにぶつかる壁」である。
より深刻なのは「歩き出せなくしている壁」の方である。なぜならそれは社会レベルと個人レベルの両方で女性を抑圧しているからである。「歩き出したためにぶつかる壁」は結果の不平等をもたらし社会レベルでの女性の地位低下に繋がるが、それでも個人の自由意志の発露を許している。一方「歩き出せなくしている壁」は後者さえも封じ込めているのである。
「歩き出せなくしている壁」の正体は「ロールモデルの不在」と「ジェンダーバイアスのかかったモデルの遍在」の2点である。次で詳しく見ていこう。
- ロールモデルの不在
ロールモデルというのは職業に限った話ではないのだが、わかりやすくするため職業で例を出してみる。我々には職業選択の自由があるが、自由があるというだけではどんな職業にでもなれるわけではない。知らない職業にはなれないからである。
かつて海上保安庁は一般にさほど知られていなかったし、聞いたことはあるという人からも海上自衛隊とゴッチャにされたり、警察組織の一部と思われたりしていたが、漫画「海猿」のヒットと映画化により認知度が飛躍的に向上し、今や潜水士などは憧れの職業として女性にキャーキャー言われたりもしている模様だ。エンタメが子供たちに職業あるいはもっと広い意味での大人としての在り方のモデルを提示し、子供たちは無意識のうちにそれを取り込んで大人ステージでの選択肢を考えていくというパターンの好例が「海猿」なのである。
漫画でいえば「YAWARA!」という作品もある。それまで柔道といえば武骨な男のスポーツであり、それを敢えて女性がやるという女子柔道は明らかにマイナースポーツの類いだったのが、この作品によって世間からの認知がまるで変わったことは周知のとおりである。この作品がジェンダー論の文脈からみて非常に興味深いのは、それまで「お前は女三四郎だな」と呼ばれていた女性柔道家が「君はヤワラちゃんだね」と言われるようになるという変化をもたらしたという点である。これは、男性の亜流(「女」+「三四郎」)としてしか定義しにくかった女性柔道家を、男性のコピーではなく女性単独でオリジナルな存在として確立させる上で、漫画「YAWARA!」がロールモデルとしての役割を果たしたということである。
わかりやすいよう漫画を例に出したが、ロールモデルというものはエンタメでなくても構わないし、むしろ伝統的には家族などの身近な存在が典型的なロールモデルにあたる。そもそもロールモデルがあって初めて人は何かを目指そうと思えるということになるのだから、ロールモデルの不在は、制度的な障害の有無以前の段階で、自由意志の発露や十分に潜在能力を発揮することを妨げることになる。したがって、女性の可能性を様々な方向に発揮するためのロールモデルが男性のそれよりも圧倒的に少ない社会は、女性を貶める社会構造を持ってしまっているといえるだろう。
- ジェンダーバイアスのかかったモデルの遍在
「ロールモデルの不在」が「マネしたいお手本がないという問題」ならば、「ジェンダーバイアスのかかったモデルの遍在」とは「マネすべきでないお手本しかないという問題」である。
テレビ番組や本、雑誌、インターネットコンテンツなど、様々なメディアの中に、女性は当然こうすべきである/こうすべきではないといった言説や、それを前提にした設定・描写があふれている。わかりやすいようにまた漫画を例に出すが、「クッキングパパ」という漫画がある。「クッキングママ」という漫画は成立しえない。ママが料理をするのは当たり前で、料理をするパパは珍しいという前提があるからこそ成立するタイトルである。
しかし「クッキングパパ」だけを槍玉に上げるのはフェアではないと言えるくらい、より一般的なジェンダーバイアスはそこかしこに満ちている。もちろん、それは一概に悪いこととは言い切れない。すべての物事を完全にフェアにすると、いかなる発言もできなくなるし、物事を単純化して区別することでこそ人間の世界観は整理されるからである。ただ、ここではそういう原理的な話ではなく、ジェンダーバイアスが商業と結びついているという点に着眼すべきである。例えば、「女の子は可愛くなろう」「素敵な恋愛をしよう」といったメッセージは、一見すると多くの女性が生まれながらにして持つ内発的動機を外界が単にエコーしているだけのようにも思えるが、実際はそのような価値観を前提にしたエンタメが多くの商業広告とともに押し寄せてくることで、我々はそのような行動に向かわされているのである。テレビや雑誌やインターネットなど、そして広告が一切ない社会をイメージしてみてほしい。そこでも女性は今しているのと同じ口紅を求めて店を探し歩き回ったり、フルーツの乗ったパンケーキと一緒に収まった写真を撮って現像し友達に見せて回ったりするだろうか。我々が自然と見聞きするものの中に、女性はこのように行動しましょうという「指図」が溢れている。我々がそれに振り回されずに自由意志を発露しようとしても、女性はこうすべきという枠組みが取っ払われた発想をすること自体が難しい。
- 第1節まとめ
・平等には機会の平等と結果の平等があるが、結果の男女平等を追求することはかえって女性の自由意志を阻害する。
・機会の男女不平等を生む原因には制度的バリアと非制度的バリアがあるが、日本では目立った制度的バリアはないので、非制度的バリアに取り組んだほうがいい。
・非制度的バリアのうち、女性とはこうあるべきという枠組みに囚われずに行動した人がその結果としてぶつかるバリアもあるが、自分の意志で動き出している分解決の見込みは高いだけマシ。そもそもそのような枠組みに囚われた発想からしかスタートできないというバリアの方が問題。
・後者の非制度バリアの正体は、ロールモデルがいないことと、ジェンダーバイアスのかかったモデルしかいないこと。
女性が子供の頃からこれらの2つの要素から成る「歩き出せなくしている壁」に晒されて育つ以上、女性の社会的地位の問題は再生産され、踏み固められていくのである。(もちろん、これと全く同じことが男性にも言えるが、本稿ではエロコンテンツが女性の生き方に与える影響を論じるのが目的なので、男のジェンダーバイアスについては追求しない。)
第2節 エロコンテンツは女性の社会的地位を貶めるものに該当しているのか
- 子供の男女観はAVによって作られてはいない
AVやエロ本には女性に対する「歩き出せなくしている非制度バリア」が存在することへの責任があるのだろうか。答えは当然NOであろう。そもそも子供はAVもエロ本も見ていないという点に留意する必要がある。勿論ちらっと見ている子もわずかにいるだろうが、そのような微々たるケースよりも圧倒的にエロコンテンツ以外の要素の方が子どもの男女観に与える影響が大きいだろうことは誰でもわかるだろう。子供の頃から「歩き出せなくしている壁」に晒されて育つことが女性の社会的地位の問題を再生産していると第1節の終わりで述べたが、原則として子供の目に触れないエロコンテンツは、その過程において主要な役割を果しえないのである。
- 女性だけを描いたエロコンテンツで男女の役割分担の平等性を論じることの愚
上記の一点だけで十分に論破可能なのだが、一応もう少し丁寧に論じる。まず、エロコンテンツはそもそも何らかのジェンダーモデルを提示しない。エロコンテンツは、ひたすら女性を中心に描きながら男性に訴求するという特殊な構造をしている(この記事においてエロコンテンツは男性向けのみを指すことを想起されたい)。AVには男性も登場するが、それはオナニーをする上で便利なように便宜的に道具として登場しているだけであり、ユーザは男性を見たくてエロコンテンツを見るわけではない。したがって、エロコンテンツの中で女性が何らかの職業や社会的役割を演じていたとしても、それは男女ともにいる中であえて女性に積極的に割り振られたものではなく、エロコンテンツにおける事実上唯一の登場人物である女性がそれをやっているに過ぎないという点に留意する必要がある。
例えば「AVを見たら裸エプロンの女性が料理をして、男は手伝わずに食事していた!これは男女差別の温床だ!」と文句を言う人はいないだろう。エロの観点から女性に裸エプロン姿になってほしくてそういう演出をしているのだから、男性が料理するはずはない。男性が料理したら男性が裸エプロンをしなければならなくなるが、そんなものは誰も見たくない。
言い方を変えれば、エロコンテンツにはジェンダー的に適切なロールモデルが登場しえないのである。それを批判することは、女性更衣室に男性トイレがないことを怒るようなものである。
- エロコンテンツに見られるジェンダーバイアスは非エロ発祥
その上で、「エロコンテンツにはジェンダーバイアスのかかったロールモデルしか登場していないから問題である」という指摘についても念のためカバーしておく。まず、仮に女性が特定の役割ばかりをエロコンテンツの中で果たしたとして、それはAVが発明したり発達させた文化ではなく、ドラマや漫画といった非エロメディアで構築されたフォーマットを踏襲しているだけである。そういった見慣れた設定にこそエロを感じるから製作者がそのような設定を選んでいるだけであって、非エロメディアがジェンダーバイアスから完全に解放されればエロコンテンツも自然とそうなるはずである。
たとえば、先日見たAVでは風邪をひいた男性社員のところに女性同僚がお見舞いに来て家事をしてあげるという設定が登場したが、そのような設定が採用された背景として、世の中の男性には「自分が弱っているときに自分の面倒を見てくれる女性にグッとくる」というエロとは無関係の認知が先に存在していて、そのツボをくすぐるために後からそれを踏まえたAVが作られたのであって、順番はその逆ではない。
つまり、非エロコンテンツがジェンダーバイアスのかかったストーリーや設定だらけである時に、それらを責めずに、単にそれらを模倣もしくは流用しているだけのエロコンテンツだけを取り上げて責めるのはお門違いである。
- 第2節まとめ
・そもそも子供はエロコンテンツを見ないので、人はエロコンテンツを通じて女性を貶める社会認知を獲得すると思うのは間違い。
・また、エロコンテンツは基本的に女性のみを登場人物にしているので、エロコンテンツにおける男女間の役割の差異を論じること自体が無意味。
・エロコンテンツにジェンダーバイアスがあったとしても、それは必ず非エロ発祥なので、エロコンテンツを責めるのは間違い。
上記のことからも、ロールモデルの不在やジェンダーバイアスのモデルの問題がエロコンテンツとは無関係であることが明らかである。したがって、エロコンテンツが女性の社会的地位を貶める存在であると主張することは詭弁であることが十分に明らかになった。
第3節 女性の地位を高めるエロコンテンツ
これまでエロコンテンツが女性の社会的地位を貶めている戦犯だという説は濡れ衣であることを論証してきたが、ここからは一歩進んで、むしろエロコンテンツは女性の地位を高める存在ではないかという仮説を立て、その根拠となりうる視点をいくつか挙げてみたい。
- 女性なくして成り立たない業界を育てるという視点
男性の性欲を満たすために女性の性が搾取されているのがエロコンテンツ産業であるから、エロコンテンツの存在自体が悪であるというのは、たまに急進的なエセフェミニストが主張する立場である。だが、エロコンテンツ産業に女性を不当に害する側面が見られがちであるということと、エロコンテンツ産業をなくすべしという議論は全く別のものであることは明確に述べておきたい。
エロコンテンツ業界の一部に見られる、女性を不当に害する行為の代表的なものとして「困窮者、知的障碍者、知識や経験の浅い子供などの社会的に弱い立場にある女性をその弱みに付け込んで性的搾取の対象とする」「性の自己決定権がないような幼い子供を性的に搾取し肉体的精神的に取り返しのつかないダメージを与える」「不当な契約を巧みに結ばせたり、親や学校・職場へバラす等の脅迫をしたりして本人の同意の範囲を超えて撮影や流通を行う」といったものがあるだろう。これらは断じて許されるべきではなく、“エロコンテンツに限らず”そのような違法行為や人権侵害をなくしていくべく国、企業、そして消費者がそれぞれの立場で努力していくべきである。
逆に言えば、これはエロコンテンツに限らない普遍的な問題であり、そのような問題が存在するという理由でエロコンテンツ産業自体を女性に害をなすものを決めつけるのは合理的思考ではない。そのような短絡的な主張を受け入れるのであれば、人身売買や児童労働により不当な環境下で女児が収穫したカカオが存在するという理由で、チョコレート産業についても女性に害をなすものとして消滅を主張せねばならなくなる。現にダイアモンド利権の奪い合いにより一部アフリカ諸国で深刻な人道危機が見られた際に、そのような経緯で製造されたダイアモンドを「血塗られたダイアモンド」と定義して市場から排除する試み(いわゆるキンバリー・プロセス)がなされたが、エロコンテンツ全体が悪だと決めつける人たちは適切な人権環境で製造されたダイアモンドも含めすべて拒否して生きているのだろうか。「AVなんて汚らわしいざます!」と顔をしかめるエロコンテンツ全否定オバサンがいたら宝石箱を開けて見せてもらいたいものである。
これは非常に重要なポイントだと思うのでそのつもりで読んでもらいたいのだが、エロコンテンツの構造を「男性の利益のために女性が利用される」という図式でしか理解しないこと自体が女性を“舐めている”行為だということにエロコンテンツ否定派は気付くべきである。セックスに関する事象において女性は主導権を握れるような大した存在ではないという偏見を内在化しているから、エロコンテンツが女性の隷属のように見えてしまうのである。女性を擁護しているつもりで、自身の女性差別をはからずも露呈してしまっている論者は多い。
不本意ながら身体を売らざるを得なくなったお金に困った女性がエロコンテンツの供給源であった時代はあったかもしれないが、現在エロコンテンツで活躍している人たちがAVやグラビア以外の場で語る内容を見れば、彼女たちがグラビアやAVの仕事を主体的・能動的に捉え、自分なりの工夫や努力をして成長し、それを商業的価値として認識できるレベルまで高めていることに誇りを持っていることがわかるだろう。エロコンテンツは、女性がその個性や才能をもって男性を魅了することができる業界なのである。彼女たちの表現の自由・職業選択の自由を保護する視点が偽善フェミニストには欠落しているのである。
エロコンテンツにおいては、原則として登場人物は女性のみであり、男性が登場する場合もあるがあくまでも女性の魅力を鑑賞者が最適な形で受け取れるための道具として便宜的に登場するに過ぎないということを先ほど指摘したが、これは言い方を変えれば、エロコンテンツ産業は、適切な意思決定過程への関与や不当な契約の排除さえ確保できれば、圧倒的に女性が活躍するチャンスが多い産業ということでもある。単に自分がエロコンテンツが嫌いであるという情緒的な主観をさも一般的な問題提起であるかのように偽装している一部のエロコンテンツ否定派たちが、エロコンテンツで立身し生計を立てている誇り高きAV女優やグラビアアイドルの努力を矮小化し貶しめることを許してはならない。むしろ、女性が活躍できる場を増やすというフェミニスト視点からは、女性でなければ活躍できないエロコンテンツ産業を健全な業界として育てて保護していくことこそが正しい姿勢なのではないか。
- 荒ぶる性欲をすべて女性本体が受け止めなくてもよくなったという視点
男性の性欲はなくせないし、なくすべきものでもない。なくしたら人類は絶滅する。したがって、性欲自体がダメという立場はとりようがないし、性欲は所与のものとして扱う以外にない。
そのうえで、エロコンテンツがない時代は、性欲は女性本人に直接ぶつけられてきた。50万年前にはAVも水着グラビアもなかったが、男性の性欲は当然あっただろう。男性の性欲が所与のものである以上、女性が全て受け止めるしかないではないかという認識が長い間存在していたものと考えられる。その一つの根拠となるものとして、夫婦間では性交渉を求める権利と応じる義務があるという法的な考え方がある。これは民法上で定義されているものではないが、性行為を合理的な理由なく拒否され続ければ離婚の事由となりうることは判例が示している。つまり日本の法的感覚においては、夫婦関係の持続において性行為は決定的な要素であるとの考えが許容されているということだが、これはこういうことでもある。つまり、「セックスしたいという欲望は無理もない!もちろん夫婦でもない相手とはできなくてもしょうがないな!でも夫婦ならセックスするのが当然だろう!だからセックスを求められたら基本断るなよ!」という考え方が背景にある。もちろん夫婦は人口の再生産のための枠組という側面があるので、単純に性欲の問題として論じることはできない。だがここであえて“性交渉要求権”に言及したのは、生物学的または社会的な子作りの必要性を抜きにしても、性欲は基本異性に向かわしめるものという認識が一般に許容されているということを示すためである。
性交の性質上そのような認識が存在するのは当然であるが、エロコンテンツの登場により、それが必ずしも当然ではなくなっているという点をまず指摘したい。これまで問答無用で女性にその矛先を向けられていた性欲が、今や相当部分がエロコンテンツにぶつけられている。この事は、エロコンテンツがなかった時代と比べ、女性がひとりの人間として丁寧に見られやすくなり、ひとりの人格として尊重されやすくなる可能性を秘めているとは言えまいか。実際に現代社会がそうなっているかどうかの検証をするにはこの文章はすでに長くなり過ぎた。ただし、その可能性自体は確実に開けていることは間違いない。真のフェミニストであれば、女性の社会的地位向上を目指す戦いの長い歴史の中で、エロコンテンツの普及が前向きな意味でも革命的な出来事として位置付けられるべきであるとの認識を有しているはずである。
- 第3節まとめ
・エロコンテンツ産業は女性こそが活躍できる場としての可能性を秘めている。
・エロコンテンツ普及以前には否応なしに女性本人にぶつけられていた男性の性欲をエロコンテンツが受け止めるようになり、女性が1人の人間・人格として認められやすい世の中になる可能性が開けてきている。
情緒的にエロコンテンツに拒否感を覚える人がいるのはわかる。エロコンテンツ産業の一部において女性の人権侵害が行われていることも残念ながら事実である。だが、だからといってエロコンテンツそのものが女性を貶める存在そのものなのだと勘違いしては、その勘違いを隠れ蓑にしてほくそ笑みながら女性を食い物にして利益を得る真の黒幕の思うツボである。我々は、エロコンテンツに冷静な評価を与えることから始めようではないか。
おまけ
このブログは数人にしか読まれていないので問題はないとおもうが、今回はいつになく真面目なテイストで書いてしまったので、マジモンのフェミニストに見つかってボロクソに批判されちゃうかもしれないと思ってちょっとビビってる。そんなフェミニストの皆さんには僕のツイートをまず読んでもらいたい。そうすれば、相手をするだけ無駄なヤツだと気付いてもらえるだろう。
わいせっつーのツイートは有害か
わいせっつーに有害なツイートはない
僕のツイートは全て性欲関連ですが、未成年に有害なツイートはあるかという視点でどれだけ遡って確認しても有害なツイートはないと思うんですよね。
たとえば、僕のツイートをきっかけに中高生男子あたりがAV女優の誰かにハマって、勉強とか他の事が手につかなくなった!とかはあるかもしれないけど、それは僕のせいではないですよね。
あと、僕は画像や動画をツイートに付ける場合は女性器や男性器の丸見えを絶対に使わないのはもちろんのこと、乳首すら隠しているので、裸体をめぐるわいせつ性基準についても、現在の社会通念から著しく逸脱はしていないつもりです。
「女性を消費対象と見なす考え方」という病
そんな事よりもっと心配しているのが、僕のツイートを読んだ若い人達が、女性を消費対象として見下すような考え方を無意識のうちに内在化する可能性です。
もう少し具体的に言うと「女は男の性欲を満たすために存在してるんだ」「だから女は可愛らしく着飾ったりセクシーな服を着てこそ存在価値を発揮するんだ」「男にモテる女、男を性的に満足させられる女は優れていて、そうでない女は価値がないんだ」みたいな考え方です。その手の発想は、極論までいくと「女は痴漢しても別にいいんだ・される方が悪いんだ」とかまでいくこともあります。
このような考え方の内在化は、実は男性のみならず女性側にもごく普通に起こります。そして、本人の自己評価に直結する分、女性による内在化の方がはるかに深刻なのです。
読み手がまともな大人ばかりならやる必要のないリスキーな行為
僕のツイートは、その冗談じみた書き方からいっても、正面から影響を受ける人はまずないとは思います。
一方で、特に子供たちの中にはこの手のリテラシーが驚くほど未熟な子もいるということ、そして僕のツイートが、たとえネタ的であっても、上述したような女性蔑視的な発想を直接取り扱っていることの2点を考慮すると、念のためこの話をしておいた方がいいのかもしれないと思います。
この記事は「ネタを解説する」「ネタにマジレスする」という「二大サムい行為」にかなり似たことをしているのでリスクがあるのですが、僕のツイートは「ネタ」というほど仰々しいものでもない「ヘンな思いつき」「おじさんの冗談」なのでまあいいかということで、リスクは承知の上で書いていきます。
客観視できる者にしか出来ない書き方
まず、僕は、「女性は性的に消費されるだけの存在だと思ってる人たち」を客観視しないと理解できないことを書いています。
ゆえに、僕のツイートを読んだ人は「女性は性的に消費されるだけの存在だと思ってる人たち」がどんなに荒唐無稽で身勝手な発想をしているかを俯瞰し、自戒の意識を持つという効果があります。
本当に「女なんてエロ以外に存在意義ねーだろ」と心の底から思っている人は、そういう意識を取り扱った文章を読んでもそれを「冗談」として認識したり面白がったりできません。そういう自分を客観視できないからです。
僕はその手の「男のサイテーな側面」を極端に誇張したり喜劇的に描写することで冗談にする事が多いので、針が振り切れているぶん、そういった側面を客観視しやすくなっています。
「サイテーな男」は誰の中にも住んでいる
同時に、それを冗談として楽しんだ瞬間、それを自分も共有していることに気づかされます。そのような「サイテーな男」が程度の差こそあれ誰の中にも住んでいるからこそ冗談として普遍的に共有できるのですから。
なので、若くて未熟な方におかれては、「わいせっつーのツイートはそういう構造になっていたのかー」と納得した上で僕の性的ツイートを読んで(そして願わくば面白がって)ほしいと思います。また、フェミニストの方におかれては、僕のツイートをチラ見して早合点して「女性の敵!!!」とか思わないでもらいたいと思います。
若くて未熟な若者に向けたメッセージを書きましたが、ここで若くて成熟した体をお持ちの女性へのメッセージを送ります。セックスさせてください。以上、よろしくお願いいまします。
過ぎゆく2017年、来たる2018年(第4回・完結)
今から言うことは嘘なので真に受けないでほしいのですが、先日AV女優の姫川ゆうな
さんと都内の某ホテルで熱く愛を交し合ってきましt・・・ではなくて、わいせっつーとしての今年の振り返りとの来年の展望について対談を行いました。これはその第4回です(第3回はこちら)。もう一度言いますがこれは架空の対談です。
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姫川ゆうな(以下「姫川」):お待たせしました~(トイレから戻ってくる)
わいせっつー(以下「わいせ」):いいえ、全然。対談長くなってすみません。
姫川:大丈夫です。
わいせ:今日はこの後撮影とかあるんですか?
姫川:今日はこのインタビューだけです。
わいせ:こういう、撮影以外の仕事って結構あったりするんですか?
姫川:そんなにないですね。姫川、イベントとかやらない人なので。
わいせ:なるほど、じゃあこの後よかったらお食事でもしませんか?
姫川:えっ、嫌です。
わいせ:ですよね…いやぁそれにしても本当ビデオとイメージ違いますよね。
姫川:よく言われます。結構アホっぽくヘラヘラ笑っている役も多いので、そういうキャラクターを私自身に期待されることもあるんですけど、それはあくまでも役柄なので。
わいせ:ムカつく役をやったら本当に嫌な女のイメージが付いて嫌われてしまった裕木奈江さんみたいなものですかね。でも、AV女優って一般女優以上に、演じている姿をその女優さんの「素なんじゃないか?」と錯覚する観る側の勝手な思い込みの余地を維持することが期待されている気がしますし、それが女優さん側にとっては面倒なところでもありますよね。
姫川:そのように期待されていると意識したことはあまりないです。実際どこまでが素でどこまでが演技かなんて明確に線引きできませんし。
わいせ:確かに、その人の持っている本質的な魅力を素と呼ぶのであれば、どんな演技の中にも素は混ざりこみうるわけですものね。その混ざり方に女優さんの個性とか技巧が表れるんでしょうね。
姫川:ええ…。あーそうそう、さっき何か言いかけたじゃないですか。冗談がどうとか…
わいせ:あ、はい。僕がさっき言おうとしたのは、インターネットで冗談を言うということについてですね。僕は子どもの頃から学校でよく冗談を言ったりしていたのですが、学校での仲の良い友達同士で冗談を言い合うのは誰でもやっていることだし、気の合う仲間内で冗談が盛り上がるのは当たり前のことだと思っていたので、そこでみんなで笑い合った内容が世の中的に面白いかどうかは別問題だと思っていたし、世の中的にどうかということに当初関心はなかったんです。でも、だんだん世の中的にどうなのかということも少し考えるようになっていったような気がするんです。
姫川:それは何歳くらいの時の話ですか?
わいせ:うーん、それは高校生くらいのような気もするし、でももっと小さい頃からそういう視点があったような気もしなくはないです。
姫川:それって、自分の力を試してみたくなったというか、世の中的に自分がどれくらい面白いかを知りたいという意識ですかね?
わいせ:そういう「力試し」的な側面も多少あると思いますが、それよりは、自分が面白いと思う事を面白いと感じてくれる人がクラスの仲よしグループの外にもいるのであればそこに発信したり共有したりしたい!という「マッチング」の側面の方が大きかったと思います。少なくとも高校生くらいのときには、フォーマットを探していましたね。
姫川:フォーマットを探すって何ですか?
わいせ:クラスの仲のいい友達は僕が面白いと思って言ったことはたいてい笑ってくれるんですけど、やっぱり僕の言うこと全部が伝わるわけじゃなくて、ピンときてもらえないところもあるんですよね。A君に伝わる面白さ、B君に伝わる面白さ、微妙に違うので、相手によって話題を変えるってのは誰しもあると思うんですが、一番伝わる相手がもしかしたらこの世のどこか別の場所にいる見ず知らずの人かもしれないじゃないですか。だから、自分が良いと思う冗談をどういう形で発信して誰に伝えたら一番気持ち良いかということを考えていました。
姫川:発信したがり屋さんですね。今もそんな感じですもんね。
わいせ:気持ち良くなりたがり屋と言った方が正しいかもしれません。そんでまあ、雑誌とかテレビに、自分が面白いと思うことを投稿して、それなりに拾ってもらったこともあるんですが、マスメディアを通じてだとやっぱり発信者としては自分は取るに足らないちっぽけな存在という事実に直面します。お笑い芸人でもハガキ職人でもない。でも、そこでインターネットの時代が来るわけです。
姫川:誰もが発信者になれる時代ですね。いいのか悪いのか。
わいせ:ホントですね。インターネットの普及により、まさに僕が考えていた「見ず知らずの人の中から、自分が面白いと思う事を面白がってくれる人を探す」ということをマスメディアの力を借りなくてもできるようになったんです。
姫川:求めていた時代が来たぞ、と。
わいせ:テクノロジー的には夢は叶ってしまったんですけど、実際インターネットって言ってもいろいろあって、どんなフォーマットがベストかっていうところで、ずっと試行錯誤があったんです。大きくわけて「どうやって冗談を言うか」「冗談が誰にどうやって届くか」の2つの側面があって。
姫川:どうやってっていうのは?
わいせ:僕が発信のためにインターネットを初めた頃は、BBS・チャット・自作ホームページの時代ですね。そのあと、ブログの時代が来て、そしてミクシィの時代が来て、これはSNSの時代の始まりと言ってもいいと思うんですけど。ブログとかミクシィと並行してずっと2ちゃんねるはあって、ミクシィの時代が終わるころに動画の時代、YouTubeの時代が来て、ニコニコ動画とかが独自の文化を作って、その後SNSはFacebookがMySpaceを負かして一強となり、あとはTwitterとLINEの時代が来るっていうのが僕の体感なんです。
姫川:いろいろやってきましたね。
わいせ:はい。で、初期のBBSとかホームページは、冗談を言うための場としてはかなり有効に機能しましたが、冗談を不特定多数の人に読んでもらうという点がなかなかクリアできませんでしたね。そういう意味ではTwitterのフォロワーが少ないときに似ていました。その点が大幅に良くなったのは2ちゃんねるでしたね。主に常連が相手になってしまうとはいえかなりの不特定多数の人に見てもらえるし、反応も得やすかったのと、あとは何より「冗談を言う」という文化が確実に存在していたのが一番大きいです。逆にミクシィは冗談を言うのに全く向いていませんでした。文化の問題でしょうね。Facebookに比べればマシですが。チャットはその場その場で冗談を言って盛り上がったりもしましたが、Twitterと同じでその場限りで流れてしまうのがちょっとイマイチでしたね。テキストで冗談を言うのを基本にしたい僕にはYouTubeは本流となりえないフォーマットですし、LINEは友達同士のツールという認識です。そう考えると、僕にとってTwitterって、冗談を言う文化がある、気軽に冗談を言ってすぐに反応が返ってくる、それを面白いと思ってくれる人が見つけやすい、という意味で「冗談を言うための現存するインターネット・ツールとして最も優れたもの」なんじゃないかなと思っています。
姫川:そうですか~。でも、もともとツイッターって別に冗談を言うツールじゃないですよね。
わいせ:でも、開発された当初はそれこそ、今の日本の中高生のツイッター観とは全く異なるものとして想定されていたわけですよね。知らないヤツにいきなり話しかけるのがツイッターのはずだし、ブログと同じく自己プロモーションに使うのが欧米的な使い方ですが、日本人は「おはよう」とか呟いて友達からいいねをもらうみたいな使い方するのが主流だし「無言フォローするな」とか「知らない人からRTされて怖い」とか、だいぶ感覚が独自に遊離してますよね。僕の使い方の方が、ある意味自己プロモーションみたいなものですから本来の用途に近い気がしますよ。
姫川:そんなことないと思いますけど…まぁいいです。
わいせ:とにかく、ツイッターは2ちゃんねる以来の優秀なインターネット冗談ツールっていうことなんです。
姫川:そうですか。じゃあツイッター始めて良かったじゃないですか。
わいせ:そうなんですよ。こうして姫川さんとも会えたし…
姫川:そうですね。私が有名かどうかはともかく、有名人といきなりゼロ距離になるっていうのがツイッターの特徴ではありますよね。
わいせ:僕が面白いと思うことを共有できる仲間をせっかくここまで数多く見つけたので、2018年は引き続きツイッターで冗談を言うことを中心的な活動としていきたいと思っています。
姫川:なんか人生楽しそうでいいですね。
わいせ:いやぁ、自分としてはそんなことなくって仕事とか大変なんですけど、でもだからこそ、インターネットでくだらない冗談を言うという一見どうでもよさそうなことを大事にしたいんです。そして、それを分かち合える仲間も大事にしたい。
姫川:大事にしたほうがいいですよ。私も冗談言うの好きですし、ひたすら冗談を言って笑いあえる仲間は貴重だと思います。
わいせ:それでは、だいぶ時間が過ぎてしまってますので、この辺にしておきましょうか。今日はありがとうございました。
姫川:いいえ、こちらこそ。お体に気を付けて冗談を言い続けてください。
わいせ:本当にありがとうございます。そちらこそご自愛ください。あと、最後にハグしていただけないですか。
姫川:えっ、嫌です。
わいせ:ですよね…
(終わり)
過ぎゆく2017年、来たる2018年(第3回)
今から言うことは嘘なので真に受けないでほしいのですが、先日AV女優の姫川ゆうなさん(むっちゃ俺の好み)と都内の某ホテル(むっちゃ俺の好み)で、わいせっつーとしての今年の振り返りとの来年の展望についての対談(むっちゃ俺の好み)を行いました。これはその第3回です(第2回はこちら)。もう一度言いますがこれは架空の対談です。
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わいせっつー(以下「わいせ」):ところで、姫川さんはご自身の強みは何であると捉えてらっしゃいますか?
姫川ゆうな(以下「姫川」):強み?うーん、自信があるのは乳首ですね。あと、身体が柔らかいというのはあるかな。肌が白いとかも?
わいせ:褒めてますって!別に笑顔が嘘くさいって意味じゃなくて、そこにいて笑っているんだけど、ある意味そこにいない、みたいな…
姫川:どんどんドツボにはまってません?姫川、そんなに「心ここにあらずでやってる」感あります?
わいせ:違うんです、マジで!
わいせ:いや、だからこそですね、そんじょそこらの女優であればただの「こいつ気持ち入ってないな〜」で終わるんですけど、姫川さんの場合そうならないから凄いんですよ!
姫川:必死に取り繕ってますね〜
わいせ:いやいやいや!要するにですね、集中は途切れてないんです、姫川さんの場合。俯瞰って、子供はなかなかできないじゃないですか。だからこんなに無邪気な笑顔なのに俯瞰を感じるということに、奥行きのある存在感と凄みが出てくるってことが言いたいわけなんです!
姫川:そうそう、それ。ツイッターはエロばっかりですけど、ブログはどうなんですか?
姫川:じゃあ、来年はブログで性欲以外のことをもっとやっていこうと?
姫川:プッ…コンテンツって…
わいせ:え?
姫川:いや、ただのブログの投稿をコンテンツとか、ホントすごいですね。自意識過剰っていうか、自己評価すごい高いなって…
わいせ:いやぁ、なかなか当たりが強いですね…
わいせ:なっ、なんすかソレ!僕をそんな単純かつステレオタイプなM気質であるかのように伝えるなんて…
姫川:でもそれはスタッフさんの優しさゆえですよ。それに、自己評価高いって、私は良いことだと思いますよ。
わいせ:自意識過剰なのは全く否定しません。ここまで自意識が肥大化してるからこそ、こんなにツイートしたりブログ書いたりできるんだろうとは思いますね。でも、僕の自己愛は、自分の自信のなさの裏返しでもあるんですよ。
わいせ:そう!自分を必死で肯定するのも、必死で否定するのも、自分に執着しているという意味では同じことをしてるんだと思うんです。
姫川:わかる!わかり過ぎますねそれ。ナチュラルに自分に自信がある人は、そもそも自分を褒めたり貶したりすることに、あまり興味ないと思う。
姫川:うん。で、なんか話の途中でしたよね。ブログの性欲以外の比率を増やそうというよりも、別の観点で何か変えたいみたいな話してませんでした?
姫川:今日はインタビューする側として来てますから!
わいせ:珍しくね。
姫川:そー、どっちかっていうとされる側なんで。
わいせ:そもそもなんでブログを始めたのかというと、ツイッターは文字数制限があるからこそ良いとは思うものの、やっぱりあるんですよ、ツイッターで書くこと思いついても、書きながら「あーこれ絶対入りきらないわ。かと言ってツイート何回かに分けて書くっていう感じでもないわ。」って思う時が。
姫川:ツイートに入りきらないことを書くためにブログが必要になったと…
姫川:それがツイッターの良いところなんですけどね。
わいせ:そう!文字数制限と同じで、すぐに忘れ去られる諸行無常感がツイッターの長所なのだと理解はしつつも、僕としては自分のツイートはもうちょっと繰り返し長期間にわたって色々な人の目に触れてほしいという思いが正直あって…といっても実際には僕自身が何度も振り返りたいという方が大きいかな。
姫川:出た、自分大好き人間!!
わいせ:だって言いながら気づいたんだもん、「色々な人の目に」とか言って、僕のブログ、多分世界でせいぜい15人くらいしか読んでないと思うから…
姫川:そんなんツイッターだって最初はそうだったわけでしょう?
わいせ:でしょ?絶対いるはずなんだけどなぜか見つからないの。
姫川:じゃあブログは、すぐに流れてほしくないような長い文章を書くために始めたということですね。今年はそれで満足したと。
わいせ:いえ、してないんです。仕事が忙しくなって一時期完全に止まってしまって。6月から11月までほぼ更新してない状態でした。
姫川:仕事のせいにしないの!性欲ツイートが仕事みたいなものでしょう、もう。
わいせ:そうね、まあー僕のツイッターやブログを代官山って言うとちょっと立地良過ぎだけど…
姫川:今さら自己愛隠しても無駄な抵抗っすよ。
姫川:あら、それこそツイッターではやりにくい試み、いいじゃないですか。
わいせ:全然完結してないんですけど、時間が経ち過ぎて先のストーリー忘れちゃったんですよ…
姫川:ダメじゃん!!!
わいせ:いやマジ、ほんとダメで…書きますけどね。なんとか思い出して。ここまできたら最後までやりたい。
姫川:心から「書きたい」っていう衝動がなくなったんなら、無理していやいや書かない方がいい気もしますけどね。
わいせ:でも、途中で投げ出したっていう事実が自分のこれからに与える影響ってのもあると思うんですよ。最後までやりとおせない自分というセルフイメージが強化されてしまうというか。
姫川:でも、嫌々書いたら、それこそセルフイメージ濁るかもしれないよ?
わいせ:なるほど。でも、たぶん書きますよ。女の人に何かを喋らせるのが好きなので。お話を書く動機の半分くらいそれですね。
姫川:女性への変身願望?女装願望みたいなやつかな。
わいせ:似てると思います。新しい女性キャラ出したばっかりなので、さすがにこのまま終わらせたくないですね。
姫川:じゃあ来年はその小説を頑張りますということですか?
わいせ:そうですね。あとは、本当はもっとブログとツイッターって、有機的に連動するイメージだったんですけど、今のところあんまりそういう相乗効果は感じないんですよね。ブログの中にツイッター埋め込んでるんですけど、ブログ読者が少な過ぎてブログからツイッターに流入するケースはおそらく皆無で…ブログ投稿した時に呟くので、逆は多少あるっぽいんですが。
姫川:もっと良い使い方があるのかもしれないですね。
姫川:別に連動させる必要ないじゃん、みたいな。
わいせ:うん、連動が自己目的化してもしゃーないし。他に注力することはあるんで。
姫川:全体的に聞いててすごく思うのが、なんかすごい必死ですよね。なんでそんなにツイッターとかブログとかに熱心に取り組むんですか?別に煽りじゃなくて、純粋に質問なんですけど。
わいせ:煽りでも答えは同じなんで構わないですけど、趣味だからですね。情熱をもって打ち込む趣味。
姫川:なるほど…じゃあ別に何かメッセージを訴えようとか世の中を変えようとかじゃなくて、単に楽しいからやってるってことですね。
わいせ:はい。ツイッターが趣味っていう言い方をしてしまうとかなりかわいそうな人という感じになってしまいますが、僕はもともと冗談をどういう場で言うかということについて…
姫川:あーちょっと待って!なんか別の長い話始まる感じですよね?
わいせ:ええ、まあ。はい。
姫川:ちょ、トイレ行ってきていいですか?
わいせ:あ、ぜひどうぞ。なんか興奮しますね。
姫川:ほんと気持ち悪いですね(と言って席を立つ)
過ぎゆく2017年、来たる2018年(第2回)
今から言うことは嘘なので真に受けないでほしいのですが、先日AV女優の姫川ゆうなさんと都内のホテルで対談し、わいせっつーの本年の活動の総括と来年に向けた展望を語ってきました。これはその第2回です(第1回はこちら)。もう一度言いますがこれは架空の対談です。
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姫川ゆうな(以下「姫川」):ところで、さっき一番好きなタイトルはひもパンのやつって言ってましたけど、普通ああいう時って私が単体で出てるのを言うと思うんですよね(編集部注:ひもパンの作品は3人の女優によるオムニバスで姫川氏はその1人)。なぜあえてあれを挙げたんですか?
わいせっつー(以下「わいせ」):作中で描写されているキャラクターと姫川さんの演技がバッチリはまっていたからです。姫川さんは決して宝塚女優タイプじゃなくて、かといっておしとやかな深窓の令嬢タイプでもなく、明るく笑い転げる溌剌とした少女のようなあどけなさの残る役柄を得意とすると思うんですよね。
姫川:まぁ、年齢的にも高校生役とか。
わいせ:その「若さゆえに無敵」みたいな存在感をすごく感じさせてくれるから、あのひもパンは最強なんです。大人をたぶらかして楽しむ高校生の全能感というか。
姫川:いつまで高校生役ができるかわかんないですけどね。じゃあ、話を戻して、さっきの「絵ネタ」「歌ネタ」っていうのは、どういうふうに振り返っていますか?
わいせ:実際「絵ネタ」「歌ネタ」と定義するほど大したものではないですけど、自分はエロいことだけじゃなくて、せっかくお絵描きとか音楽が好きなのだから、自分らしいことをしようと思って、たまに絵とか歌とかをツイートしたりするんです。
姫川:画像とか動画でってことですか?
わいせ:はい。2016年の後半はわりと仕事に余裕があったので、漫画とかの時間がかかるやつやってたんですけど、2017年は、特に後半は、漫画は全然なくて、絵もイラストっぽいのが増えました。
姫川:ネタ切れですか?
わいせ:それもあるかもしれないですが、やはり仕事のせいですね。なので、2018年は漫画の構造をしたものをまた描きたいですね。
姫川:本当は漫画を描きたいのに忙しいから仕方なくイラストを描いているんですか?
わいせ:いえ、イラストはイラストで、描きたいと思ったものを描いているんですけど…
姫川:じゃあ、その時その時でやりたい事をやれているのだから無理して漫画描こうって思わなくてもいいんじゃないですか。描きたくてたまらなくなったら忙しくても描くと思うんですけど。
わいせ:なるほど…
姫川:あまり仕事の忙しさのせいにしない方がいいと思いますよ。自分が何をしたいのかに意識を集中する方がいい気がします。
わいせ:ありがとうございます。あと歌の方ですが、これは2017年の後半から始めたもので、よく歌の上手い人がやってる「歌ってみた」みたいな趣旨ではなくて、あくまでもツイッターでやってる性欲ネタのバリエーションとして歌のフォーマットを取り入れてます。これが自分としては結構好きで、来年以降も歌のフォーマットを使っていろいろやりたいなと思ってます。
姫川:たとえば?
わいせ:今のところオリジナルというか、ほぼ即興で作って歌ってるんですけど、替え歌とかもアリかなと思ってます。
姫川:なんで今年の後半になって歌をやり始めたんですか?それまではやろうと思わなかったんでしょうか。
わいせ:今年に入ってからキャス配信をやるようになったことが大きいです。それまではインターネットに自分の声を流すことにはかなりの抵抗がありましたけど、キャスで鼻歌レベルの歌を歌ったりするうちに抵抗がなくなってしまいました。姫川さんは仕事を通じて御自身の姿形や声が不特定多数に晒されることに抵抗を感じたりされますか?
姫川:それにどうしても耐えられない人はこの仕事しないでしょうね。よくわかってないでやってる人はいるかもしれないけど。
わいせ:そうですよね。ところでキャスの話が出たのですが、キャス配信を始めたというのが2017年の最大の変化です。性欲に関することを淡々と文字で呟くことだけが、わいせっつーとしての作業だったので、僕自身にとっても、僕以外の人にとっても、かなりインパクトがあったと思います。
姫川:どういうインパクトですか?
わいせ:僕の視点からは、ツイキャスで声を聞かれてしまうということは、恥ずかしい、身バレが怖い、イメージが変わるという三重構造の抵抗があって。
姫川:自意識過剰!
わいせ:そうなんですけど、そういう理由で、興味はあったんですけどなかなか実際にやろうとは思えなかったんです。それを好奇心が上回ってしまって、ついに一回ツイキャスをやったけど、やんなきゃよかったーって感じでしたね。
姫川:どうして?うまく話さなせなかったから?
わいせ:というより、今まで着衣の仕事しかしたことなかったアイドルが、セミヌード的な仕事を初めて受けた、みたいな…「あぁ、あんなとこまでさらけ出してしまった…」っていう。すみません。こんな喩えしていいのかな?
姫川:別に問題ありませんよ。でも、そんな感じだったのに、またやるようになったんですよね?やっぱり楽しかったってことですかね。
わいせ:お喋りというやり方で、文字ツイートでは味わえない新しい楽しみが生まれるということが徐々にわかってきたんです。あと、リアルタイムで他の人とやり取りするライブ感もツイッターではあまりないですし。さっきの三重の抵抗を、メリットが上回るようになってきたんで、今ではちょいちょいやるようになりました。
姫川:そんなに気負ってやるものなのかな、キャスって…メリットとかデメリットとかそういう次元で捉えたことないですけど。
わいせ:いや、僕も、メリットとデメリットを天秤にかけて衡量した上で行動してるわけじゃなくて、単に良い面が見えてきたってことです。
姫川:で、来年はどうしたいんですか?なんか新しいことしたいんですか、キャスで。
わいせ:実はここはあんまり考えていないんです。でも、歌とか絵とかと比べても、文字ツイート以外で今一番興味があるのがキャスかなって思うんで、2018年は何かツイキャスで革命というか飛躍を遂げたいという想いだけはありますね。
姫川:またキャスごときで大げさですね。。。
わいせ:例えば、朗読劇とか。
姫川: えっ、そういう方面ですか?
わいせ:例えば、ですよ?雑談じゃないものをやってみたい。
姫川:オナニー実況でもしたらどうですか?
わいせ:それは自分的にも聞いてくれる人的にもアウトだと思います…倫理的にアウトというより、面白くないと思います…
姫川:需要は女性のオナニーよりもだいぶ少ないでしょうね…
(第3回へ続く)
過ぎゆく2017年、来たる2018年(第1回)
今から言うことは嘘なので真に受けないでほしいのですが、先日AV女優の姫川ゆうなさんをインタビュアーに迎え、わいせっつーの本年の活動の総括と来年に向けた展望を語ってきました。もう一度言いますがこれは架空の対談です。
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わいせっつー(以下「わいせ」):初めまして。大ファンなのでお会いできて光栄です。
姫川ゆうな(以下「姫川」):初めまして。出演作見てくれて、ありがとうございます。好きな作品とかあります?
わいせ:一番好きなのはDOCのひもパンですね。あとは三井ゆり名義のkawaii*とか…あとはメイドでご奉仕のやつですね。
姫川:あぁ…結構初期のですね、わりと。
わいせ:私のツイートをご覧になったことは…ございますか?
姫川:えっと…(スタッフをチラ見)ごめんなさい、ないです。
わいせ:正直な御回答ありがとうございます。私は性欲に関係あることだけを呟くアカウントをやってまして、もうすぐ3年になります。
姫川:へぇ…下ネタだらけなんですね。(ここでスタッフからメモを渡されて読み上げる)もうすぐ今年も終わりますので、2017年のわいせっつーさんの活動を振り返って、いかがですか?
わいせ:そうですね、僕としては今年のわいせっつーとしての活動を5つの視点から省みてみたいと思います。
姫川:えっ、そんなにあるんですか…
わいせ:5つの視点というのは具体的には「サブ垢(ふっつー)」「絵ネタ」「歌ネタ」「キャス」「はてなブログ」のことです。
姫川:「絵ネタ」「歌ネタ」「キャス」「はてなブログ」はなんとなく想像つきますけど「サブ垢」の「ふっつー」ってなんですか?
わいせ:わいせっつーアカウントは性欲に関係あることしか呟かないという制約を自らに課しているので、性欲に関係ないこと、つまり普通(ふっつー)のことを呟くための別のアカウントがあるんです。(スマホを見せる)これなんですけど。
姫川:へぇ…やっぱりメインの垢よりだいぶ人気がないですね。
わいせ:やはり世の中が僕に期待するのは性欲関連ということなのでしょう。
姫川:いや、別に世の中とか期待とかいうほど大それたものじゃないとは思いますけど、はっきりテーマが決まっている方が、逆にクリエイティブになるっていうのはあるんじゃないですか。
わいせ:それは言えますね。そんなわけで僕のサブ垢は「それ以外」「その他」「じゃない方」アカウントという、消極的、受動的、他律的な存在でしかなかったわけです。
姫川:影みたいなものですよね?
わいせ:まさにそうです。実体があるからこそ影がある。影だけが独自に存在することはできない。それが1つの反省点でもあるんです。もったいないなと。
姫川:ポテンシャルを活かしきれなかった?
わいせ:ええ。なので2018年は、ふっつーに積極的な意味を見出していきたいと思ってるんです。
姫川:具体的にはどういうふうに?
わいせ:まだはっきりとは決まっていませんが、たとえばわいせっつーの方では、ある種のシリーズものというか、お決まりのパターンみたいなのができているので、ふっつーの方でもそういうシリーズものみたいなものをやるっていうのは一案だと思ってます。何かご提案やご助言頂けるとうれしいのですが…
姫川:うーん、特にないですけど、多分もっとフォロワーが増えた方がいいと思います。
わいせ:なるほど…
姫川:そもそも、性欲縛りって言って、こだわりがあるように見せかけて、性欲に関係ないこと用のアカウントを別に作るっていうのが正直わかんないんですけど。性欲以外も呟きたいなら全部1つのアカウントでやればよくないですか?
わいせ:それはですね、性欲関連のツイートしかしないアカウントという存在が欲しかったんです。こいつをフォローするとひたすら性欲関係しか言わねーなっていう。それを良いと思ってくれる人にフォローしてもらうという形が僕にとっては理想なので、そこに性欲以外のツイートが流れ込むならこいつフォローする意味ないわって思う人もいるだろうし、むしろそういう人から求められる存在になりたいんです。でも、こいつが性欲以外も呟くならそっちも読んでみたいわって思ってくれる人もいるかもしれなくて、その両方が共存できるようにアカウントを分けてるんです。
姫川:へぇ…そのこだわりがよくわからないですけど、とにかく分けることに意味があるんですね。
わいせ:あとは、先程言及した「絵ネタ」「歌ネタ」をふっつーの方でもやれたらいいなとは思いますね。でもよく考えたらわいせっつー垢でも特にエロ要素のないただの女子高生の一枚絵とかを出しちゃってるし、差別化は難しいかもしれないです。
姫川:まずはメインのアカウントの絵とか歌のクオリティを高めることを考えた方がいいかもしれないです。
わいせ:うぅ…
(第2回へ続く)
ゴンゲ #7
ジュネの乗り気な様子を活用してゆう子の不機嫌さを自然な形で封じ込める方向に持っていくことにした僕は、2人をソファに座らせ、僕の村にヤツがもたらした厄災について説明を開始した。話を始めてしまえば、ゆう子の意識は話の内容に向いて、自動的に怒りは収まるはずだと僕は楽観していた。
「女たちはみんなヤツら一味の虜になってしまったんです・・・」
「本当ですか?この辺りじゃそんな話は聞かないですけど?」ジュネは真面目に話を聞いて受け答えをしているが、ゆう子は終始自分の髪の毛をいじっては毛先をまじまじと眺める一連の動作を緩慢に繰り返すだけだ。
「そもそも、宏樹さんの村ってどこにあるんですか?ずいぶん遠くから来たみたいな言い方ですけど?」真顔のまま、やや早口でジュネが質問してくる。どうやらこの子はどちらかといえば優等生タイプのようだ。
「ここから500ワーディクスくらいです。」
「そんな距離を歩いてきたの?」だしぬけにゆう子が口を挟んできた。「車はないの?」
僕の声は自然と沈んでしまった。
「タイヤが動かないんです。」僕はちらりと自分の靴の落ち切らない泥に目をやった。「女たちの愛液で地面はドロドロになってしまい、村から車は出られない・・・」
ゆう子は顔を強張らせて僕の方を見ていた。いつの間にか髪の毛いじりはすっかりやめていた。一方で、なぜかジュネが神経質に指の爪をいじりはじめた。
「正直さぁ」ゆう子が固い表情のまま言った。「そいつらがどれくらい凄い奴らなのかとかいまいちイメージわかないけどさぁ」ジュネは、まるで自分が話しかけられているかのように几帳面にゆう子の方に顔を向けて話を聞いている。「聞いてると、かなり大規模な事件っぽくてさぁ、たぶんゴンゲ引っ張り出さないと話にならない感じするんだけど・・・」
僕は黙り込んでしまった。
正確に言うと僕は、それまで見えていなかった2つの現実がにわかに目の前に立ちはだかったような感覚に陥っていた。一つは、いつの間にか僕の心理は、この2人を僕の村に連れて行けば物事が解決するかのような根拠のない前提を作り上げていて、その前提に僕は盲目的にすがっていたという事実だ。そしてもう一つは、ゴンゲほどではないにしろ性欲が強くて頼もしい戦士と勝手に思い込んでいた目の前の二人の女性は、顔を強張らせたりソワソワと緊張したりしており、そんなある意味ごく普通のか弱い女性たちを何のいわれもなく僕は、危険に晒そうとしていたという事実だ。
僕はいったい何様なんだ。
これが我にかえるという感覚か。
僕は心の画用紙にいつの間にか淡く滲んだ絵の具で描かれていた絵の1ページを無造作に破り捨てて、ひとりでヤツらに立ち向かう絵の下書きを始めた。ゆう子とジュネは、抜け殻のような男が階下へ降りていく足音を聞いた。
バーを出ていく寸前に飲み代を払っていないことに気付いた僕は、戻って紙幣をポケットからまさぐり出してカウンターに置いた。最後にもう一度店内を見回す。客は男も女も変わった様子はない。ゆう子もジュネも下りてきた様子はない。ゴンゲもいない。
僕はついに店を出た。
もう一度この500ワーディクスを歩いて戻ろう。いや、もうヤツらはこの近くまで来ているかもしれない。
急ぎ足で、来た道を戻っていく。いつの間にか台風でも来たかのように風が強くなっている。僕は、思ったよりも帰還に時間がかかりそうだと覚悟を決めた。しかし、こんな強風の中を徒歩で長距離歩かなければならないという状況のわりには、僕はさほど悲壮感に包まれていなかった。それは、誰かに頼る気持ちを捨て、自分でなんとかしてやろうという決意があったからかもしれない。そこまで考えて僕は初めて、ゴウゴウという風の中に、風とは明らかに異質な音が混じっていることに気付いた。風がなければもっと早く臭いで気付いていただろう。
「宏樹さ~ん!」
僕の後ろから、馬が追いかけてきていた。ジュネが乗っていた。