Bustle Pannier Crinoline

バッスル・パニエ・クリノリン

「コーラに角砂糖●個分もの砂糖が入ってる!」はアプローチが間違っている

小学校の保健室の前に掲示されている「保健ニュース」を始め、テレビ番組や教科書を含む様々な場所で、コーラやファンタなどの清涼飲料水の前に角砂糖を積み上げて「こんなにも角砂糖が入っている!体に悪い!」と訴える表現方法をよく見かける(「清涼飲料水 角砂糖」という検索ワードで画像検索をすればたくさん出てくる)。

 

私は、清涼飲料水の飲みすぎに対する注意喚起の目的でこの表現方法を使うことに反対である。 

 

先に結論を述べる。

清涼飲料水は、少なくとも糖分の含有量そのものに関しては、他の食品との比較や人体の代謝との関係において、特にやり玉にあげられるべきものではない

一方で、清涼飲料水には①急激な血糖値の上昇リスク②口内環境の歯周病リスク③糖質過多な食習慣の早期確立リスクといった観点から、気を付けて摂取すべき食品であることは事実

★「糖分が角砂糖●個分入っているからダメ」という論法は、狙った結論に招くために嘘を方便として使っていることに近く、健康増進にとっては有効であったとしても、子供の科学的・論理的思考の健全な発達にとっては害悪である。

 

以下、詳しく述べる。

 

1 清涼飲料水における糖分の含有量は危険な水準とはいえない

(a)角砂糖という単位

ざっと調べたところ、一個あたりの角砂糖の重さとしては、3g、4g、5gあたりを置いているサイトが多いことから、ここでは4gで計算することとしたい。なお、熱量でいうと、砂糖の種類によるが概ね1gあたり4kcalなので角砂糖一個でいうと16kcalといえる。

(b) 清涼飲料水の糖分量

知名度ゆえに最も槍玉に上げられがちなコカコーラを例に調べてみる。公式サイトによれば、コカコーラには100mlあたり11.3gの糖分が含まれているという(なお、この糖分とは具体的には糖質10g程度+食物繊維1g程度とのこと)。ここでは話をシンプルにするため、糖分の重さをそのまま角砂糖の重さに相当するものとして扱う(世の保健ニュース等も同じ発想と思われる)。コカコーラの缶は180ml~350ml、1人用のペットボトルは500mlなので、缶なら角砂糖5~10個程度、1人用ペットボトルなら角砂糖14個程度の糖分が入っている計算になる。

(c)糖質の量そのものについての他の食品との比較

あんぱん1個の糖質は38gで角砂糖5個程度相当。茶碗一杯の白飯も同じくらいである。

(d)代謝

小学生の1日の代謝熱量はざっくり1,000~1,300kcalである。つまり小学生は一日に角砂糖60~80個分のエネルギーを毎日消費している、逆にいえばそれに必要なだけの熱量素を摂取しているということである(熱量素の全てが糖質ではないし、熱量素が体内で全て同じ使われ方をするわけではないことには注意が必要であるが)。なお、小学生が1時間勉強しただけで、脳は角砂糖5個分の熱量を消費するとのことである。

(e)子供の一般的なコーラ消費量

ある論文の調査によれば、小学校高学年の炭酸飲料摂取量は平日・土日を平均して1日あたり126ml(スポーツドリンクや果汁は含まないことに注意)。これはいわば、月・水・金だけコップ一杯のコーラを飲んで、土か日のどちらかだけ缶コーラを1本飲む程度という計算になる。毎日コーラをペットボトル1本分飲んでいるような小学生はかなり特殊ということになるだろう。

(f)1の総括

育ち盛りの子供がお茶碗一杯ではご飯が足りず二杯も三杯もおかわりするという話はよく聞く。それに対して「ご飯をお茶碗2杯食べたら角砂糖10個分!」などといって眉をしかめる親御さんがいるとは思えないし、保健ニュースがあんぱんの横に角砂糖を並べた写真を使うとも思えない。そもそも、熱量換算でいえば朝昼晩3食とおやつを通じて毎日毎日角砂糖60~80個が体に入っては消えているというような規模感の話の中で、小学生が平日は一日おきに角砂糖5個分のコーラを摂取するからといって、騒ぐことなのか。子供が今日コーラをコップ1杯飲んだとして、それは糖質重量でいえば、ご飯のおかわりがいつもより1杯分多いのと同じなのである。むしろ、子供が1時間勉強するだけで、コーラでいえばコップ1杯分以上の糖分を脳が消費してしまうことを踏まえて、ちゃんと子供が勉強するのに十分な糖質を摂らせているのかを心配すべきであろう。「糖分の量だけを理由に」清涼飲料水だけが殊更に悪者扱いされるいわれはないのである。

 

2 それはそれとして清涼飲料水は体に良くはない

(a) 糖質量そのものだけが問題ではない

1の内容は、「コーラは安全だからどんどん飲んで大丈夫」ということを意味しない。わざわざ書くまでもないかもしれないが、具体的には下記(b)~(d)のような問題を挙げることができる。

(b)血糖値の急上昇

清涼飲料水は飲み物であるため、ご飯やあんぱんよりも一気に大量摂取が可能である。また、清涼飲料水に含まれる糖質は米などの糖質と質的な差があり、素早く吸収され血糖値を上げる。また、甘さは冷たい方が感じにくいため、通常冷たくして飲む清涼飲料水は舌で感じる体感以上に多くの糖質を摂取してしまいがちである。これらの要因があわさって、清涼飲料水は、糖質総量が同じ他の食べ物と比較しても、血糖値の急激な上昇のリスクを高める。(血糖値が高いこと、急上昇することの問題点については専門家の解説に任せるが、簡単にいえば血糖値の急上昇はインスリン過剰分泌で太りやすい体を作るのみならず、血糖値の急激な変化が血管を傷つけ深刻な健康被害をもたらすということである。)

(c)口内環境の歯周病リスク

上記(b)でも問題となった「飲み物である」という点は、他の作業・行為をしながら飲む、少しずつ長時間にわたって飲む、といった摂取スタイルになりやすいという点でご飯やあんぱんとは一線を画している。長時間にわたって口の中に常に糖が残存する状態が維持されることが虫歯などの歯周病のリスクを高めることは言うまでもない。

(d)習慣化の問題

清涼飲料水は「飲み物」であるがゆえに、生活習慣と密接にリンクしている。朝コーヒーを飲む人の中で、水分補給や糖分補給を心がける観点から飲んでいる人は少ないだろう(カフェインを摂りたく飲んでいる人は結構いるかもしれないが)。彼らは、朝コーヒーを飲むという生活習慣を確立しており、習慣の範疇で飲んでいることが多いのである。これは食後にお茶を飲むというのとも一緒で、習慣を実践している側面が大きいのである。清涼飲料水を子供の頃に飲む習慣が全くなかった人は、大人になってからもあまり飲まない人が多い。2日に1回コーラを1杯飲んだとして、その1杯には大した健康被害はないが、その習慣が一生続く人とまったくその習慣がない人との間に生じる上記(b)や(c)のリスクの差は莫大なものになる。

(e)2の総括

上記のような特徴が清涼飲料水にはあることから、角砂糖5個相当のコーラを飲むのと、角砂糖5個分相当のおにぎりを食べるのでは、意味が異なるのであり、やはり清涼飲料水は子供にあまり飲ませない方向で教育すべきなのである。ではなぜ1のような文章を書いたかというと、清涼飲料水を飲み過ぎるべきではない理由として角砂糖●個分と糖分の量そのものを挙げることは論理的ではないということである。この点を次の3で詳しく述べる。

 

3 「角砂糖積み上げ表現」を容認する教育は社会水準の存続を危うくする

(a)「角砂糖積み上げ表現」は問題の所在を誤解させ論理軽視の人間を育成する

2で述べたとおり、清涼飲料水は飲み方に注意せねば健康を害する食品であるのだから、世の中にある保健ニュース等の注意喚起は正しいではないかと考える方も多いだろう。しかし、本稿では清涼飲料の安全性を訴えているのではなく、水角砂糖を積むという表現方法を問題視しているのである。角砂糖を積み糖分量を視覚化することで清涼飲料水の危険性を訴えることは、問題の所在が糖分の量自体であるということを子供に刷り込むことになる。それは、結果として子供が清涼飲料水を飲み過ぎないように気を付けるという教育効果は得られるかもしれないが、その結果に至る過程が正確ではなく非論理的かつ非科学的であるため、その後子供たちが様々な健康にかかわる情報に触れていく中で、それらにどのように向き合うかという教育効果としては負の効果が大きいのである。

(b)子供なのだから「嘘も方便」でいいじゃないかという立場への反駁

「子供は馬鹿で理解力に乏しいから、インスリンの話とか代謝とかもわからなくて、みんな清涼飲料水を飲みまくって健康を害してしまうではないか、角砂糖の写真でビビらせておけば視覚的にわかりやすくて印象に残るし清涼飲料水は体に悪いという刷り込みが功を奏して結果としては国民の健康状態は良くなるのだから良いではないか」という立場はありえると思う。しかし、私は、それでいいのか?と問いたい。実益を取るために因果関係を歪めた説明をして、子供から論理的思考・批判的思考の芽を摘む。我々はむしろ「この保健ニュース、角砂糖を積み上げているけど、それって意味なくね?なんかオレたち、不自然な方向に誘導されてんじゃね?」と疑問を持つ子供を育てなければ、社会がどんどん脆弱になっていくのではないか。たしかに、小学生の自由研究ならよいだろう。しかし、たとえば高校生になっても角砂糖タワーのインパクトで思考停止しているようでは目も当てられない。中学生レベルでも、保健ニュースの手法のおかしさを暴く自由研究くらいしてしかるべきである。子供だから「嘘も方便」でいい、ではなく、未来ある子供に対してこそ論理的思考を軽視したアプローチをとることにより一層慎重になるべきなのである。

(c)論理的思考を軽視した教育の行く末 ~結論にかえて~

我々は「清涼飲料水は気を付けて飲まなければならないね。でもそれは角砂糖●個分もの多くの糖分が入っているから、という言い方は正確ではないよね。むしろ同じ角砂糖●個分入っている食べ物と比べても~とか~といった点で清涼飲料水はよりリスクが大きいから特に注意しなければならないのであって糖分量そのものが問題の所在ではないよね」と考えられる子供を育てなければならない。しかし、角砂糖タワーを公然と教育に使う大人たちのもとで子供たちは、学術的・論理的整合性よりも視覚的インパクトの方が優先される世界の価値基準を無意識に獲得していく。そして、非論理的だがインパクトのある新聞やテレビ番組の論調を無批判に受け入れてしまったり、一見すると正義の味方のように悪そうな政治家を追及しているように見えて実際には国民の大切なリソースを浪費しまくっている議員を熱烈に支持したり、非科学的で怪しい健康食品にドはまりしたり、インターネットで”世界の真実”に気づいて陰謀論的言説をばらまいたりするような人間に育っていく。そのような人生を送るのは個人の自由かもしれないが、社会全体としてはどうだろう。論理的思考ができない人たちも、蛇口をひねって出てくる水を使って生活し、道路の上を歩いたり電車に乗ったりして移動し、当たり前のように毎日安全な商品が並ぶコンビニで買い物したりしているわけだが、蛇口をひねって安全な水が出るような世の中を維持しているのも、交通インフラや経済的な生産・流通を維持しているのも全て、論理的思考ができて原因と結果を正しく捉えられて本質的原因とたまたま併発した事象を区別できる人たちが支えているからに他ならない。この快適で安全で便利な生活を今後何十年にもわたって維持したいのであれば、「角砂糖●個分も糖分が入っているから体に悪いゾ~!」というような微妙に間違っていなさそうで実はおかしい表現を一つ一つ見直していくべきである。

 

浜崎あゆみについて

浜崎あゆみが世に出た時、そしてヒット曲を次々と飛ばすようになってからも、僕は彼女についてこんなふうに思っていた。

 

「声が喉にぶつかって聴き苦しい、歌の下手な女」「なのにこんな奴の歌がヒットして、似たような歌の下手な歌手が出てくる事が許されてしまっている」「浜崎あゆみの曲をカラオケで歌う人たちも、浜崎あゆみがアレで許されてるせいで、みんな真似して喉声で苦しそうに歌っている。」

 

時代で言うと僕はだいたい18〜20歳くらい。いわゆる“厨二病”は年齢的にさすがに終わっているものの、洋楽に出会って世界レベルの音楽を知って(かぶれて)、日本の商業的かつカラオケに特化しすぎなヒット曲群に対する嫌悪感はまだまだ健在なお年頃であった。

 

なお、浜崎あゆみに対する嫌悪感は、その素人っぽい歌い方だけでなく、歌番組で見せる「あ〜、ほぁ〜い」みたいなアホの子みたいな雰囲気によるところもあったと思う。

 

そういったわけで、「Depend on you」を聴いた時に心のどこかで曲の完成度の高さを認めつつも、浜崎あゆみを良いと認めるという発想はそもそも選択肢として念頭になかった。

 

僕にとっての浜崎あゆみ分水嶺はおそらく「appears」そして「SEASONS」であろう。

 

「depend on you」の時点ですでに相当歌がうまくなっていた浜崎あゆみであったが、僕は「Boys & Girls」でさらに進化した表現力を見せつけられていたにもかかわらず、「浜崎の歌はダメ」という固定観念から抜けられずにいた。とはいえ、「appears」で曲自体に対する偏見はほとんどなくなったと思う。ハッキリと意識してはいなかったが、「歌唱力はともかく曲は悪くない」という認識はここで確立したと思う。

 

もう一つの分水嶺は、「SEASONS」であるが、僕にとってこの曲が他とどう違うのかはいまだによくわからないものの、僕はこの曲を聴いてはっきりと「この曲を覚えてカラオケで歌いたい」と意識したのだった。それはもう「良い曲だなと思った」「好きだなと思った」と言い換えてもよいものだったとは思うが、当時はとにかく浜崎あゆみへのひたすらに悪い印象がなかなか拭えず、浜崎あゆみの歌声自体も好きになる事はないまま、浜崎あゆみブームは過ぎ去り、彼女は次第にテレビで見かけない存在となっていった。

 

そして、僕自身は様々な経験を経て歳をとったある日、Amazonプライム浜崎あゆみのヒット曲がたくさん聴けることに気づき、懐かしさからかよく聴くようになる。そこで僕は初めて、曲もよくできているが、浜崎あゆみの声質自体も類まれなものであることにようやく気づいた。

 

たしかに歌唱技術として巧みなわけではないが、浜崎あゆみの魅力はテクニックではなく、その時代を閉じ込めたような、いわば当時の若い女性たちの感情に寄り添うような、同時代性・同世代性をキャラクターとして持つ声質なのではないかと感じたのだ。

 

そして、やがて浜崎あゆみの著書を元にしたドラマが始まったりして、浜崎あゆみの歌に対する論評・再評価の声もよく聞くようになった。その中で、あの苦しそうな歌い方こそが、当時の若い女性の胸の苦しみを代弁するように響いて、それがゆえに浜崎あゆみ若い女性に支持されたというような趣旨の論評があり、僕は非常に腑に落ちたような感覚を覚えたのである。

 

そうして僕は浜崎あゆみの、女性性を軟弱な女々しさとしてではなく、自立した女性の葛藤として表現したような、ソリッドかつ無機質でありながらガーリーで少女的な歌声の魅力に取り憑かれたのだ。

 

そうして、最終的に僕は「YOU」という楽曲の異質さに思い至ったのだ。この曲は最初期の曲ではあるが、デビューシングルではなくセカンドシングルである。しかし、デビューシングルの「poker face」よりもなぜか幼さと拙さを感じさせる。

 

理由は、高音部にある。「poker face」はサビも音程的に一気に上がったりせず歌が苦手な人にも歌いやすいが、「YOU」はそもそも浜崎あゆみが気持ちよく歌えるキーよりもだいぶ高く設定してあり、高音部の「どうにか出している」感がきわめて強い印象を残す。(これは恐らくわざとであり、プロデュース陣の先見の明が光るというものである。)

 

その後彼女はボイストレーニングでもしたのかわからないが、同じような高いキーでも(少なくともCD用にレコーディングされたテイクでは)違和感なく声を着地させている。

 

つまり、彼女はおそらく鍛錬によって自分なりの「ソリッドかつ無機質でありながらガーリーで少女的な歌声」を作り上げ、自分なりの高音の出し方を確立していったが、「YOU」はその確立前の未完成な高音がレコーディングされているということなのだと思う。

 

僕はやがて、この未完成な高音の出し方の危うさに強く惹かれるようになっていった。僕は特に、無難に着地できていない声の置き方に、いい意味での子どもっぽさ・いたいけさを見出したのだと思う。小学生くらいの合唱には、中高生の高度な合唱にはない魅力があるものだが、ある意味それに通じるような、その時にしか見られない一瞬の煌めきが閉じ込められていると感じずにはいられないのである。

 

そういったわけで、何が言いたいかというと、浜崎あゆみは素晴らしい表現力をもった歌手としてカッコよくてエモーショナルな完成度の高い曲を数多く残していますという事と、その上で僕はまだ浜崎あゆみの技術とスタイルが確立する前の生焼けな未熟歌唱にしかない味わいを堪能できる「YOU」が気になってしかたがありませんという事の、以上2点である。

 

 

 

 

同性愛、多様性、国家経済、そしてセカイ系

「同性愛者が増えると国が滅ぶって言う人いるけど、国のために人を愛するわけじゃないし」的な言説について。


国が滅ぶから同性愛は規制すべしだなんて考えは論外だし、そんな主張はすでに各所でフルボッコにされてるから、ここではあえて追求しない。


むしろ「国のため」と「私たちのため」が全く異なる二つの概念であるかのような物言いに警鐘を鳴らしたい。


国というものを自分の生活とは切り離された存在という前提で考える人は、その時点で「私は政治家や官僚に文句は言う、自分では国のために努力はしない、国がくれるサービスは当然受けるという人種です」と宣言しているようなもの。


国がどうにかすべきだろうが!って言う奴、お前も国の一部だろと思う。


同性愛の話に戻ると、まずこのまま少子高齢化が進めば今の生活は成り立たなくなるのは事実だけど、少子高齢化の原因を同性愛に対する社会的許容の浸透に求めることができる根拠はないってことをまず押さえるべきだろう。一方で、同性愛に限らず、多様な生き方の許容という概念まで広げるなら少子化の要因の一つではあるだろう。


つまり「適齢期になったら誰しもが結婚して子供をもうけるべし」という社会的プレッシャーがなくなってきたこと。これに経済格差の拡大(経済資源の偏在→モテと非モテの二極化・固定化)が合わさって少子高齢化が進んだと僕は見ている。


でも日本経済を維持するために再び適齢期に結婚出産をしろと圧力かける社会にするのは無理&不適当だろう。


だから、同性愛に限らず様々な生き方を受け入れる社会を維持しながら同時に日本の経済を強くするにはどうすればいいですかというのが議論のスタートになるべきで、現にそういう議論はあちこちで進んでいて技術革新で克服するとか新しい価値観の創造とかが提案されているのが現状だと思う。


この手の話では「移民を受け入れて日本の産業を維持しよう」という論点が必ず出てくるが、世界的に価値観が多様化した国はほぼ必ず少子化になってきてるので、移民による労働力維持論は、価値観の多様化が進まない移民輸出国の存在を前提に自国の経済を維持しようする論だという視点を欠く人が多い。


勿論、いま日本がもっと移民フレンドリーな国になれば日本に移民したい外国人はかなりいるから実態としてはそれでいいという割り切り論もありえる。それを同性愛者に適用するなら、全員が同性愛者になることはなく大半の人は異性と子供を作るから現実問題人類は滅びないよというスタンスもとりえる。現実そうだからいいじゃんというのは思考停止っぽくて嫌な気もするが、否定することもできない気がする。


同性愛で国が滅ぶと主張している人はおそらく「世界中が同性愛者になったら移民も日本人もみーんないなくなるんだぞ」というマクロな極論を述べているだけなので、個々人の生き方のミクロ視点からそれに反論する人が出てきたところで、話が全く噛み合わないのは当然なのである。


少子化を同性愛者のせいにするのは理に適っていない事は再確認しよう。

その上で、同性愛者も異性愛者もみんな電気使ったりカフェ行ったりするけどそれを支えているのは精子卵子の合体物だという点も認識しよう。

みんなで子作りするのが当たり前だった時代に築いた豊かさの上で僕らは生きてる。今の暮らしがしたければ今後も人類には大規模な異性間性交渉が必須という現実と、多様な生き方に価値を置く人類の精神的成熟をどう折り合いつけるか、一人一人が考える問題だ。

多様性の尊重と経済的豊かさは密接な関係にある。適齢期で結婚出産しなくてもよくなったのはそれでも食っていけるからだ。多様性というスローガンばかり声高に叫んだって理想からはむしろ遠のいていくだろう。

国がどうにかしろ、国がうまいことやってくれたらその成果だけ享受しますと言って逃げられはしない。

個人の生き方の議論と、国や政治の話を完全に切り離されたものとして扱う“セカイ系”の物言いには賛同しかねる。

あなたが私をつまらないと感じるのは、私があなたに私を面白がってもらいたいと思ってないから

「貴方は真面目すぎて人間的な面白味がない」と言われました。そう言われるのも無理はありません。私は普段、人から面白いと思われるような言動はほぼしていないからです。


ところで、私は子供の頃は「お前は本当に冗談ばかり言ってるひょうきんな子供だね」と大人から言われるような子供でした。とにかく面白いことを言って笑いをとりたいと強く思うタイプだったのです。子供といっても、小学生時代から今の会社に入社するくらいまでは「●●で一番面白い奴であり続ける」という命題に強い執着心を持っていました。「●●」にはダイレクトに見渡せることができるサイズの自分の所属するコミュニティが入ります。たとえば「クラス」「同期入社」「課(職場)」などです。実際に一番でしたかと聞かれると、自分では入社までは常にそれを保ってきたと自負しているのですが、面白さは主観でしか決められないので「いや大嘘だよ。全然一番ではなかったよ。」という証言者が現れることでしょう。しかし、「貴方は●●で一番面白いね」と言われたことが何度かあることは事実です。


自分がそんな人間だったことを思い出して信じられないという感覚に陥るくらい、今の私は面白いことを言ったりやったりしていませんし、面白いヤツでありたいという願望もなくなってしまっています。もっといえば、私はもともと明るい人間だったのですが、極めて暗くて無表情な人間になってしまったのです。


なぜなのかを考えてみると、第一にはやはり会社での過酷な労働が私の精神構造を変えてしまったという側面は無視できないと思います。第二に、加齢によりあらゆる執着が薄まったという点も間違いなくあると思います。このどちらがどう優勢なのかは結果だけ見ても判別がつきません。両者の影響力の比率はともかく、労働と加齢のおそらく両方が私の価値観や性格を変えたということは間違いありません。


その上でさらに思う事は、私は今でもTwitterで毎日冗談を言いまくっており、冗談を言うのが好きであることはこれもまた間違いのないことだということです。フォロワーが少なかった時は特に、どんなに天才的に面白いことをツイートしてもほとんど反応が得られないということが積み重なって、面白いやつというポジションに執着することに疲れたというのがもしかしたら第三の理由なのかもしれません。


話がそれましたが、Twitterの件で何を言いたかったかというと、この記事の冒頭で述べたとおり、私は周りから面白みのない奴と思われていますが、はっきり言って


「あ〜この人のこと好きだわ〜この人からは面白いと思われたいわ〜って思う相手の前では私は面白いんですよ」


ってことなんですよ。

相手には言えませんが、


「あなたには面白いやつと思われたいとそもそも思ってないんで、あなたからつまんない奴と思われても全然構わないし私の大好きな人は私が面白いことを知ってくれてるんで問題ないっす、さーせん、ソーリー、バーイ」


ってことなんです。


歳をとって価値観や性格がかわって、「面白いやつ」という“ポジション”自体に執着していた若い頃とは異なる「認めている相手に認められたい」という“関係性”に焦点がシフトしてきているってことなんだと思います。


YouTubeでドヤ顔で英語を教えてくれる英語圏の人

インターネットの普及は外国語学習の在り方において分水嶺となったという評価に異を唱える人は少ないだろう。特にオンライン電子辞書と並び効能が大きいのがYouTubeの普及であろう。

 

文法や単語を丁寧に解説してくれる動画で学校や塾で学ぶ以上にわかりやすく楽しく学ぶことができたり、特に英語勉強用の動画でなくても英語話者がナチュラルにしゃべっている様子や英語のドラマ・映画・PVなどを通して生の英語に触れることで英語を学ぶといった使い方をしている人は多いだろう。私もそうである。

 

そんな多大な恩恵を受けている者が、そのメリットと釣り合わないほどの些細な問題に文句を言うことは生産的ではないと思うのだが、この手の論点をあまり見かけないので少し書いてみる。

 

誰でも発信者になれるのがYouTube時代の良いところではあるが、すなわちYouTubeには、言語教育学を専門的に修めた専門家もいれば、ただ英語圏で長く過ごしたというだけの者もいるという点は留意すべきである。

 

ただ英語のネイティブスピーカーだというだけで、自分の第一言語に無頓着すぎて「そんな感じなのにドヤ顔で『英語の勉強になります』的な動画よう上げたな」という奴がまあまあいる。

 

「そんなことある?」と思うかもしれないが、日本語に置き換えてみればわかるだろう。同じ「ん」という文字でも、その発音はnだったりmだったりngだったり声門閉鎖音だったり何通りもあるということは日本語を客観的に勉強したことのある者には常識だが、ただの日本語ネイティブの日本人にこの話をするとたいていの人はピンとこない。そして「あんない」「あんばい」「あんがい」「あんあん」とかを言わせると「うわーほんとだー!」とびっくりするのが常であり、その様子を日本語学校の学生が見たら何を今更という顔をするだろう。日本語学習者から「すっきりとさっぱりはどう違うのか」「象は鼻が長いの主語はどれか」などという質問をされたとして、筋道を立てて説明できる日本人がどれくらいいるだろうか。日本語教職課程をとった人はできるのである(ちなみに私はとっていない)。そのように日本語に対して言語としての客観的な理解をもつことはある種の特殊技能である。そういうレベルの人の高度な動画もあれば、自分が毎日しゃべっている日本語にまるで無頓着な人の動画も、玉石混交でYouTubeに転がっている、そう考えれば、ましてや世界中に話者のいる英語においては・・・推してはかるべしということである。

 

別に言語学習者の教える動画が一番役に立つと主張したいわけではない。そこらへんのティーンがだべっている生の英語こそ価値があるという人もいるだろう。どんな動画が役に立つかはその人の目的次第であり断定するつもりはない。ただ、それ間違ってない?勘でやってない?参考にして大丈夫?と心配になる動画はかなりあるのでそのつもりで観た方がいいよねというだけの話である。

「人間は浮くようにできているんだけどなぁ」と半笑いする大人

私は泳ぎが子供の頃から苦手だった。

 

今はどうか知らないが、私が子供の頃は泳げない人に対して「人間は浮くようにできているんだけどなぁ」と半笑いするだけで、浮くための指導もろくにできない体育教師や親などの大人がいた。

 

浮ける子はなぜ浮けて、浮けない子はなぜ浮けないのかを説明し、浮くためのコツを教えるべきなのに、浮けない子の方に生得的な問題があるかのような言い方をしているわけである。

 

子供だった私はそれに批判的態度をとるほどの頭もなく、「浮かない僕は何か欠陥があるんだ」「僕の側に落ち度があるんだ」と、彼らの提示する非合理で一方的な断罪を内在化するばかりであった。

 

それから30年ほどの月日が流れた。

 

大人になってふと気づいた。「そういえば結局、子供の頃に言われた『人間は誰でも浮くようにできている』という言説は本当なのだろうか?仮にそうだとしたら、どういった理由で浮けない人が出てくるのだろうか?調べてみよう」と思った。今ならインターネットがあるから、この手の話は求める知識に到達しやすい。

 

調べてわかったことは、基本的に人間の体は「水より少しだけ重い」ということである。なので、空気を肺にたっぷり入れたり手足をうまく動かすことで初めて人間は浮くのだそうだ。そういえば、溺れ死んだ人はいったん沈むが死後しばらくたって体内にガスが溜まると浮いてくるというおぞましい話をきいたことがあるなあと合点がいく。

 

つまり、「人間は誰でも浮くようにできている」というのは大嘘で、むしろ逆に近い。「人間は基本的に沈むようにできている」というのが正しいのだろう。

 

(誰でもとあえて言わなかったのは、体脂肪率が極端に多い場合は筋肉質な人に比べて単位体積あたりの重量がだいぶ小さくなり、浮きやすい可能性があるからだ。)

 

全く正しくないにもかかわらず「あれえ?おかしいなあ?人間は誰でも浮くようにできているんだけどお?」などという虚言を馬鹿面で弄していたあの大人たちは、子供たちに向き合う態度はどうあるべきかを全くわかっていないクソ人間だったのだ。許せん。溺れ殺して「あれえ?おかしいなあ?人間は誰でも浮くようにできているのだから溺れたって浮くはずだけどお?」と言ってやろうか。

 

子供が徒競走で一位がとれない、逆上がりができない、そういった場面に遭遇したときに、お前に欠陥があるんだ、とにかくもういっぺんやってみろ、気合と根性が足りん、という非科学的な態度ではなく、その運動のメカニズムなどを自分で調べて、どのような工夫が効果的かあくまでも科学的にアプローチして、一つ一つ個別のコツ単位で子供に教えて、うまくいったら一緒に喜ぶ、これが大人のあるべき姿ではないだろうか。

 

大人の助けを必要としている子供相手にドヤ顔で優越感に浸っておいて、その実なにもわかっていない馬鹿どもは、マジでガスでパンパンになって水面に浮かぶ哀れで醜いドザエモンにしてやろうか本当に(しつこい)(明らかに私怨)

ELTのタイアップ要素の溶け込めてなさ鑑賞部

「ここが『ELTのタイアップ要素の溶け込めてなさ鑑賞部』か〜ちょっと体験入部してみるか」


「『ELTのタイアップ要素の溶け込めてなさ鑑賞部』へようこそ!今ちょうどやってたトコだよ、どうそ座って!」

「ありがとうございます先輩!お願いします!」


朝までファーストフードで


「お、これは有名な曲っすね!」


「そう、『Dear My friend』だ。男女の友情を恋愛関係に変えようとする男側の意思を察知してそれとなくお断りしていく女の歌ね。男女の関係性の変質がテーマなんだよね」


いつしかあなたと二人で会う機会多くなってた


いつも居心地の良かったあの場所へ戻ろうよ


「いつしか二人で会う機会増えてたって、これたぶん男側がそうなるように仕向けていろいろ策を講じてるよな」


「そうっすよね〜でも女側は友達関係の方がいいんすよね」


 "綺麗になったね突然 どうしたのかな 冗談だよね マジな顔はあなたに似合わない


「おお〜男側が力技で男女の仲に持ってこうとしてる〜!」


「この女の反応!完膚なきまでに脈なしっすよね〜!」


 これからも友達でいれるかな?


「あーもう明示的にフラれてますね〜」


「シッ!来るぞ!ココ聴いて!」


いつか最高の自分に生まれ変われる気がするよ


「きたーーー!!唐突にこれまでの流れを無視して自分磨きの話に切り替わったーーー!!」


「あー、この違和感を楽しむ部なんすね?」


「そう!この曲はエステのCMのタイアップだから、最高の自分に生まれ変わるみたいなイメージの歌詞を入れてもらうように多分発注があったんだと思うよ。それを曲全体のテーマにしても良かったはずなのに、全体としては男女間の友情or恋愛みたいなテーマの曲にした上で無理やりサビにエステ感をぶっ込んできてる、この浮いてる感じが最高なワケよ!」


「なるほどーー!たしかにシビれますね!」


「よーし、じゃあ次の曲いくか〜」


タクシーのヘッドライトが


「あっ、これも聞いたことあります!」


「これは『For the moment』っていう曲でね。カップルの間にふとした事がきっかけで不信感が芽生えてしまうけど、本当はもっとどっしり構えて愛し合いたいみたいな歌詞なんだ」


頬に流れ落ちる涙 街が滲んでいた

友達から聞いたあなたの噂話 信じたくないけど


「あー第三者経由できいちゃうパターンっすね〜」


「噂話の具体的な内容は語られないけど、おそらく他の女とデートしてるっていう噂だと思われるよ」


これほどに人を好きになる事今までなかったから


「ほら、ココやっぱり彼の事が一番好きだっていう原点に帰るんだけど、ココから先が注目ポイント!!」


潤して欲しい この熱い身体


「えっ!熱い身体を潤して欲しい???それが要望っすか??」


「そうなんだよ!彼氏が浮気してるんじゃないかって泣いてる女性がだよ?こんなにも人を好きになるのは他にないっていうかなり高潔なレベルの感情に到達してるわけだから、その後に来るのは『ともに愛を育くんでいこう』的な方向に行くか『もっと私のことだけを見て』とかでしょ?なのに『熱い身体(カラダ)』とかいう言葉を選んじゃったら、私ムラムラしてカラダが火照ってるんだよーって、他の女なんか抱いてないで私とセックスしてーって言ってるかのようになっちゃうじゃん!しかも熱くなったカラダを『潤してほしい』ってそれ、体の中に液体を注入してくれって意味に聞こえて、彼氏を健気に思っていた主人公像が一気に台無しになってるでしょー!?なんでだかわかる?」


「これもタイアップのせいってことっすよね?なんだろう、熱いカラダを潤すってことは清涼飲料水っすか?」


「うーん、ほとんど正解!でも惜しい!正解はICE BOX氷菓の一種かな。」


「あー!冷えてる感じが訴求点だから熱い身体っていう歌詞になるんすね!じゃあエロい意味の身体が火照るじゃなくて本当に夏の暑さなんすね!」


「そう、熱い夏にカラカラに乾いた喉をかち割り氷でクールダウンして水分が身体に染み込んでいくっていうイメージ!彼氏の浮気なんか全然関係ないわけ!」


「だからここだけ浮いてるんだ!」


……


「どうだった?」


「いやー面白かったっす!」


「よかったら入部してみてよ!次回もまた同じ場所でやるからさ」


「この感じならまた来たいかも次回はいつですか?」


「9ヶ月後」


「えっ?!?!なんでそんな先なんすか?!?」


「タイアップ要素の溶け込めてなさを楽しめるELTの曲はそんなにたくさんはないから


「よく部として大学に認可されましたね?!?!」