Bustle Pannier Crinoline

バッスル・パニエ・クリノリン

星野源のあの曲はドラえもん主題歌にふさわしくない

ドラえもん のび太の宝島」の主題歌だった星野源の「ドラえもん」がテレビで毎週放送されるアニメ「ドラえもん」の主題歌になったのは2019年10月。だからこの事について述べるのはだいぶ機を逸しているし、恐らくここで述べることは多くの人がすでに述べている可能性が高い。だが、このモヤモヤは一度整理して吐き出してしまった方がいいと考え記事にすることにした。

 

私の主張はこうだ。

星野源の「ドラえもん」はアニメ「ドラえもん」主題歌にふさわしくない』

 

1 「ドラえもん」主題歌に欠かせない要素が決定的に欠落している

ドラえもんの主題歌は、ドラえもんの世界観と同じ高さの目線で描かれるべきである。

 

その事を示すために、まずは、典型的な「ドラえもん」主題歌とは何かと考えてみたい。「ドラえもん」の主題歌として10年単位で継続して採用された曲は過去に2曲しかない。一つは、四半世紀にわたりアニメのオープニング曲だった「ドラえもん」、もう一つは約11年間オープニングを務めた「夢をかなえてドラえもん」である。

 

この2曲の歌詞を読めば、これらが極めて似通った角度で書かれていることがわかるだろう。前者の歌詞の「あんなこといいな できたらいいな」というフレーズは、日常の中で感じる夢や願望を持った少年少女の視点から、言い方を変えればのび太的な視点から発せられた言葉である。そして、その夢や願望を叶えてくれる素敵な友達として「とってもだいすき ドラえもん」とドラえもんに対する親愛の情を露わにする内容となっている。後者も同様に「心の中いつもいつも描いてる」という願望を持つ子どもの視点から描かれた、そのポケットで夢を叶えてくれるドラえもんに呼びかけるような構成となっている。

 

 また、1979-1981年にオープニング曲として使われただけでなく、1995-2002年にはエンディングに採用され、この文で話題にしている星野源の「ドラえもん」にすら旋律が引用されているという意味で、長年にわたり「ドラえもん」主題歌としてのインパクトと地位を維持している「ぼくドラえもん」にも言及する必要があるだろう。この曲は、タイトルが示すとおり、ドラえもん自身の視点から述べられた歌詞となっている。

 

このように、ドラえもんの世界観と同じ高さの目線、言い換えればドラえもんのび太の目線から主観的に歌われる曲こそが、「ドラえもん」の正当な主題歌として人気や評価を得てきたという事がわかる。

 

翻って星野源の「ドラえもん」の歌詞は、読めばすぐにわかるが、これは子供の頃から漫画/アニメ「ドラえもん」に慣れ親しんできたファン(大人)の視点、言い換えれば星野源の視点から書かれており、ドラえもんを「自分の夢を叶えてくれる友達」ではなく「好きな漫画/アニメ作品」として俯瞰する歌詞になっている。そして、それがこの曲を、先述した典型的ドラえもん主題歌たちとは一線を画した性質たらしめている。

 

そのような曲を発表すること自体は悪いことではないし、映画の主題歌にしてもよいだろう。しかし、「僕は子供の頃からドラえもんという作品が大好きなんですよね〜」というおじさんの自分語りを、テレビアニメ「ドラえもん」を毎週楽しみにして見ている子どもたちに主題歌として聞かせることが適切なのかについては、疑問が残る。なにより、そのような姿勢の曲を主題歌にすることについて、いつも子ども第一に考えてらした藤子・F・不二雄先生がもし御存命であられたらどのように思うだろうかと思わずにはいられない。

 

2 もともと大長編主題歌として作った曲をTV放送主題歌に流用するな

 

もし私がなんの事情も知らずにいきなり星野源の「ドラえもん」の歌詞を渡されて「これがテレビアニメの主題歌になります」と言われたら「星野源ドラえもん読んだことあんのか?」と思っていただろう。

 

なぜなら、星野源の「ドラえもん」の歌詞には「機械だって涙を流して震えながら勇気を叫ぶだろう」とか「何者でもなくても世界を救おう」といった、大長編ならまだわかるが、平常運転のドラえもんとは明らかにテイストが異なる内容が含まれているからである。

 

星野源大長編ドラえもんを意識してこの曲を作ったのだから、勇気を叫んだり世界を救ったりするのも無理はない。だが、のび太が悪知恵で私利私欲を満たそうと企んだり、そのせいで世界を滅ぼしそうになる内容がメインであるテレビアニメ「ドラえもん」主題歌にそれを採用していいはずがない。

 

この曲がテレビアニメ主題歌として流用されたことは、星野源が「大長編でしかドラえもんを知らない人」に見えるという効果しか生んでいない。アニメへの逆輸入という悪手を取ったスタッフの罪が一番、それを受け入れた星野源の罪が二番目に重いが、ひょっとすると星野源は本当に「ドラえもん」の事をあまり知らないのでないかとすら思える要素もあるが、それは後述する。

 

3 子供を置いてけぼりにする自己満足の“ファンアート”

大長編向けに作ったものという事情を加味したとしても、やはり星野源の曲は、オマージュの仕方が“大人の手口”っぽくて、大人向け商売の臭いがプンプンして興ざめなのである。

 

藤子・F・不二雄ファンならピンとくる「少しだけ不思議」と入れてみたり、「ぼくドラえもん」の冒頭のメロディーを間奏に引用したりするという小ネタくらいなら、やり方が大人の発想過ぎて嫌だなとは思いつつも、子供にとってもそういう元ネタ探しは楽しいかもなとギリギリ思える。

 

しかし、「ドラえもん」という作品の周辺的なネタをパロディ的に仕込むのと、ドラえもんの内部である主要登場キャラを「僕らの知ってる作品に出てくるあの有名キャラクター達に間接的に触れてみました、わかりますよね」といわんばかりに捻って入れてくるのでは全くわけが違う。

 

星野源の「ドラえもん」はスタンスが主題歌ではなくファンアートなのである。どこの世界に本体のアニメを「主題」ではなく「元ネタ」にした主題歌があるだろうか。あるとすれば、それが成立するくらいの捻くれたセルフパロディ的スタンスのアニメである。そのような方法を意図的に許容することは、「小学●年生」という学年誌に「ドラえもん」を掲載していたF先生のスタンスに反するとしか思えない。

 

ここまで読んでおそらく「それのどこがいけないの?」と思った方もいるだろう。星野源の「ドラえもん」がテレビアニメ「ドラえもん」の主題歌になるということは、例えばアニメ「ドラゴンボール」の主題歌の歌詞が「野菜や冷房の名前を持つ戦士 光のオーラをぶつけ合ってバトルする 当時の漫画のバトル表現が全部それになってしまった〜♪」のようになっているようなものなのである。そういうのはドラゴンボールを好きな大人たちがパロディ的にやる事であって、公式側が子供達に向けて公然とやることではない。

 

4 「君をつくるよ」は完全アウト

星野源の「ドラえもん」に「いつか時が流れて必ず辿り着くから君に会えるよ」という歌詞があり、そこからさらに後の方で「いつか時が流れて必ず辿り着くから君をつくるよ」という歌詞が出てくる。私はこれをかなり深刻な問題として捉えている。

 

これは、既に述べた「星野源ドラえもんをちゃんと読んでいないのではないか」「あまりドラえもんの事を知らないのではないか」という疑念と、ファンアートのようなスタンスという私の評価の両方が交わる点である。

 

のび太ドラえもんは一緒に暮らしている設定であるにもかかわらず「いつか」と書いてあるということは、「あー、やはり星野源は作品を俯瞰したところから歌詞を書いているんだな」「将来実際にドラえもんが発明される日を待つ、作品の世界観の外側にいる人視点の歌詞なんだな」と思ってしまう。だが、「君に会えるよ」なら「いつか発明されるだろう」で済むが「君を作るよ」になると意味は変わり、一人称はドラえもんの製作者自身となるところまで踏み込んでいる。そしてこのフレーズは、例のニセ最終回の同人漫画騒動を思い出させる。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ドラえもん最終話同人誌問題

この著作権侵害をめぐる問題について何も知らないナイーブな人の中には「ドラえもんの最終回って、ドラえもんが壊れて、のび太が科学者になってドラえもんを発明するんでしょ〜?最後のセリフがメッチャ泣けるわ〜」くらいに思っているかもしれない。しかし実際、F先生が今まで提示したこともない勝手な設定が一部本物であるかのように流布してあまつさえそれでお金を儲けている人がいるということはかなり深刻な問題なのである。

 

「君に会えるよ」までであれば「ドラえもんで描かれたような未来はきっとくる」という一般化で理解可能だが、「君を作るよ」まで具体化されると、否応なしにこの最終話同人問題が連想されて、「もしかしたら星野源のび太が科学者になってドラえもんを発明するというインターネットで広まったデマを信じ込んでるんじゃないか?」という疑念すら湧いてしまうのである。

 

5 まとめ

以上のことから、私は、星野源の「ドラえもん」はテレビアニメ「ドラえもん」の主題歌にふさわしくないと考える。ドラえもんの世界観を俯瞰せず、ドラえもんの作品の内部に込められた視点からの歌詞で、大人向け商売のテイストを出しすぎないようにした作品が、星野ドラに取って代わる日を楽しみに待ちたい。