Bustle Pannier Crinoline

バッスル・パニエ・クリノリン

オナニーのおかずは女体ではなく「関係性」である

オナニーする時、何に対して興奮しているのか?

心が何を求めているのか?

陰茎への物理的刺激?それともドスケベな女体?

もちろんこれらはいずれもオナニーシーンにおいて求められるアイテムに数えられるが、オナニー者が求めているのは究極的には「関係性」なのではないかという結論に私は達している。

 

1.「関係性」とは何か

具体的に言うと、ここで言う「関係性」とは、ひとつには「究極の承認」、ひとつには「究極の親密性」であるが、これらは同じ概念を異なる側面から描写したに過ぎない。

 

2.「承認欲求」は「性欲」より先に来ることがありうるか

「承認欲求」は、近年一気に普及した感のある言葉だが、もともとは心理学の専門用語であり、概念としては特に新しいものではない。詳しくは専門家に譲るが、承認欲求は、生理的欲求等よりも後にくるものとして位置づけられる。

 

    【欲求の階層の図】

    <自己実現欲求

   <  承認欲求  >

  <  所属と愛の欲求 >

 <    安全の欲求    >

<   生理的欲求性欲とか) > ← もっとも基礎的かつ低次な欲求

 

 

オナニーの究極目的が性欲の充足ではなく承認だとすると、上記の階層構造が逆転することとなる。本当に私のオナニーの目的は「性欲に見えるが究極的には承認欲求」と言えるのだろうか?私の勘違いではないか?

 

いや、そんなことはない。なぜならセックスしたい欲と違い、オナニーしたい欲はいかなる形でもヒトを生殖に向かわしめることはないからである。(これは、オナニーはセックスの代替品か?というテーマとも関連するが、それはそれで一本別の記事になると思う。)むしろオナニーに満足することでセックスレスが進む可能性の方が高い。生殖を促進するどころか邪魔さえしうるオナニーが純粋に性欲の産物であるはずがない。我々がそれでもこんなにオナニーしたくなるのは、性欲以外に理由があるからとしか考えられないのである。その理由というのが「究極の承認」なのだが、「究極の承認」を理解するためにあえていったん「究極の親密性」に話を移そう。

 

3.「究極の親密性」

ここで冒頭の「陰茎への物理的刺激?それともドスケベな女体?」という文に戻りたい。性器を始めとする裸というものは、ごく親しい友達や家族にすらみだりに見せるものではない。逆に言えば、性器や裸を見せる相手は、最も親密な間柄ということになる。我々は友達がいないと寂しく思い、遠慮なく思ったことが言い合える間柄を誰かと構築すると充足感を得る。我々は誰かと親密な関係になりたいと心の奥底で思っている。

 

しかし、このような説明では、むしろセックスについての論考になってしまう。オナニーはソロプレイであり、どんなにシコっても誰かと親密になることなどありえないのに、どうしてオナニーの動機が「究極の親密性」の追求たりえるのだろうか?

 

その答えは、実はオナニーそのものを観察しなくても、セックスの実態の中に見出せる。実際の人間関係としては大して親密でない相手であっても、親密性の証である「キス」「裸を見せる・見られる」「セックス」といった行動をとることを求めてしまうことは誰しも納得することだろう。それこそが性欲のなせる業というふうに説明されることが一般的には多いと思うが、この現象は生殖という実利的な目的観に立つよりも、親密性の追求という視点から説明した方がより合理的であるというのが私の立場である。

 

子孫繁栄の観点からは、相手との間柄とは無関係に、できるだけ多くの相手と生殖活動を行えることが望ましい。子孫繁栄のチャンスを不特定多数に拡大すること自体が重要なのであって、1回のセックスだけに着眼した場合にその相手が他人だろうが愛する人だろうが質的な違いはない。

 

一方、親密性追及の観点からは、人生における様々な人間関係の親密度の合計点を大きくすればするほど良い。ということは、すでに親密な相手と親密な行為を行うことは、その合計を大きくすることにあまり貢献しない。むしろ、あまり親密ではない相手と親密な行為を行った方が、人生における「誰かと親密になった度合の合計」を一気に増やすことになる。

 

私は「我々は誰かと親密な関係になりたいと心の奥底で思っている。」と書いたが、この親密性の追求が、1つでも親密な人間関係が構築できていれば満たされるような類いのものであれば、よほど家族も友達もいない人でない限り、追求はすぐに終わるはずである。しかし、世の中を見てみればわかるとおり、人間は「家族と仲よしだから友達はいらない」「親友が一人いるから恋人はいらない」というふうにはなっていないのである。つまり我々は「誰かと親密になった度合の合計」の拡大を重視する生き物なのである。

 

しかし、社会性を持つ生き物として、実際にはセックス相手を無尽蔵に作ることは現実的ではない(ごく稀に「100人以上の異性とセックスしました」というような人もいるがこれは例外である)。したがって、我々人類は「誰かと親密になった度合の合計」を増やすことを欲していながら、無差別的に裸を見せ合ったり行きずりのセックスをしまくったりすることができないという状況に置かれているのである。

 

そして、セックス以外の方法で「誰かと親密になった度合の合計」を増やす方法を編み出したのである。それがオナニーである。

 

オナニーのオカズの本質はファンタジーであるということは、すでに他の記事で論じた。ファンタジーであるがゆえに、我々は社会性を維持したまま、無尽蔵に「親密な間柄でしかしない行為」の相手を拡大することができるのである。

 

我々が妄想の中で誰かと親密な行為に及ぶとき、あるいはそのようなAVをオナペットにするとき、我々の「本当はそういう行為をしていない/できないような相手と親密な行為をしたい」という欲求を満たすべくオナニーに邁進しているのである。

 

4.「究極の承認」

再び「陰茎への物理的刺激?それともドスケベな女体?」という文に戻ろう。結論じみたことを先に言えば、親密な行為というものは承認に直結しているということだ。

 

例えば、オトナであれば社交辞令やお世辞として「あなたは立派な人ですね。」「素敵な人ですね。」といくらでも口では言えるが、「じゃあ裸を見せてくださいよ」「陰茎を挿入させてくださいよ」と言われたら「ごめん、それは無理」となるだろう。つまり、性的な行為は親しさの記号であると同時に、相手を受け入れること・価値をみとめることの証でもあるのである。それも、最上級の承認と評価してもいい行為だ。

 

我々は親密な行為を通じて承認を得る。しかし、前述のとおり、実際に親密な行為ができる相手は限られているので、オナニーを通じて本来であればなかなか実現しないパターンの承認獲得を行うことを欲するのである。

 

5.アダルトコンテンツ製作者へのメッセージ

アダルトコンテンツは、女性の裸体や性行為を描写することで見る者の性的興奮を惹起するものと捉えられている。それ自体は厳密には間違いではないが、そもそもなぜ我々は女性の裸体や性行為を見たいと思うのかという背景部分を勘違いすると、おかしなアダルトコンテンツが作られることになる。

 

たとえば、女体ばかりを延々と映し、その女性と自分との関係性についてこれっぽっちの妄想の余地も与えないようなアダルトコンテンツもある。純粋に女性の肉体そのものを欲するタイプのオナニストもいるので、そういう人にとってはそれ系のコンテンツは良いものかもしれないが、私に言わせればその手のコンテンツはオナペットとしてほぼ成立していない。

 

勘違いしないでいただきたいが、たとえナースとか教師といったいかにもな設定を必ず用意しろと言っているのではない。そんな設定がなくとも、その子との親密な関係性を疑似体験できればよいのであって、それはオナニスト側のイマジネーション次第でどうにでもなるといえばなるのだが、そのイマジネーションを上手に素敵な方向に導くエロコンテンツこそが良いコンテンツなのであり、その導き方こそがエロコンテンツ製作者の腕の見せ所なのである。

 

理解しがたいかもしれないが、わかってほしい。そして、忘れないでほしい。

我々がオナニーするのは、性欲ゆえではない。

「関係性」を欲するがゆえなのだということを。