Bustle Pannier Crinoline

バッスル・パニエ・クリノリン

私がオナホを使わない理由

私はオナホを使ったことがない。今回は「なぜ私がオナホを使わないのか」という私の主義を語ることを通じて、「オナニーとは何か」という考察へとつなげていきたい。

 

私がオナホを使わない理由を一言で言うと、物理的刺激はオナニーの本質ではないというのが私の信念だからだ。

 

わくわく(興奮)と癒しを与えるものがファンタジーだとすれば、そのファンタジーのうち主に性的興奮を与えるものをオナペット(オカズ)と呼ぶことができると私は考えている。よく「○○ちゃんでシコった」という言い方をするが、これはあくまでも慣用句であり、陰茎をしごきましたという動作を報告しているわけではない。「今夜一杯飲みたい」というのが、グラス一杯分の液体を経口摂取したいという意味ではなく、今夜お酒で酔って気持ちよくなりたい(そして誰かと語り合いたい等)という意味になるのと同じだ。オナニーにおいて物理的な運動や刺激は鍋物でいう鍋みたいなもので、「今夜は鍋にしよう」と言っても実際には鍋の中身を食べているのであって鍋に歯を立てる奴はいない。しかし鍋がなければ鍋物は成立しない。オナニーにおいて陰茎に物理刺激を与えることは「必要だが本質ではない」ということだ。

 

しかし事は単純ではない。オナホが単純に物理的刺激を与えるためだけのアイテムであれば、話は終わりだ。だがしかし本当にそうだろうか。オナホを使ったことがない私でさえ、オナホにファンタジー性がゼロだと断言することにはためらいがある。

 

なぜなら、オナホには、その物理的特性に応じたキャラクター設定がなされている(らしい)からだ。原則として、1つのオナホ商品は1人の個性を持った女性が投影されていることが多い(穴が2つある商品は、2人の女性が投影されている)。包容力のある穴には包容力のある比較的しっかりと成熟した女性、キツめの穴にはキツい性格だったりだいぶ若い年齢設定の女の子、といった具合だ(と思う)。

 

仮に、オナホ商品が与える女性の偶像が使用者にファンタジーを与えるのであれば、オナホは物理的刺激を与えるツールであると同時にオナペットでもあるということになる。オナホを使用しないオナニーにおいては、陰茎への物理刺激とオナペットは物理的に同一ではない。典型的なオナニストなら、前者は手淫、後者はエロ動画といったところだろう。しかし、オナホがオナペットになる場合は、物理的刺激と精神的刺激が同一の源から注がれることになるため、オナニーとしてはむしろ高次元・高純度なもののようにも思えてきそうだ。また、より本物のセックスに近いとも言える(本物のセックスに近いオナニーが良いオナニーだと言いたいわけではない。この点についてはいつか別の機会に論じたい。)。

 

オナホにファンタジー性があるならば、私がオナホを使わない理由はもしかしたら薄弱なのかもしれない。刺激を与えるのが素手なのかオナホなのかの違いしかないのであれば、オナペットにこれだけバリエーションがある以上、物理刺激の与え方にバリエーションがあってもよいだろう。

 

しかし、ここでさらに別の疑問が立ちはだかる。オナホを使っている人たちは果たしてオナホを物理的刺激兼オナペットとして使っているのだろうか。これはもはやオナホを使っている人に訊くしかない。そして人によってオナホの捉え方は様々に異なるであろう。ただ言えることは、オナホ商品のレビューを見ると、その商品の物理的刺激の特性について評価しているケースが圧倒的に多く、その商品がどのような女性像を喚起するかという部分が「オナホの使用感」そのものと位置づけて語られるケースは非常に少ない。したがって、世の男性たちはオナホに対して、基本的には物理刺激を与えるツールとしての役割を求めているということが推測できる。そして、各商品に宛て描きされている女性の偶像は、オナペットとして妄想を盛り上げる役割を一定の度合で果たすとは思われるものの、むしろその商品の物理的特性、つまり「穴の具合」を魅力的かつ端的に消費者に伝達・訴求するための役割の方が大きいのではないかという推測が成り立つ。

 

本当かどうかはわからないが、漫画家の蛭子能収氏は、オナニーをするときオカズを一切使わず、エロいことも一切思い浮かべず、陰茎への物理的刺激だけで射精に至るときいたことがある。これが本当だとすれば、彼にとってはオナペットの持つファンタジー性は一切価値を持たないことになるし、もし彼がオナホを使う人だったとしたら、オナホのパッケージに描かれた女の子の絵や商品の名前などは不要ということになる。そして、私と蛭子氏のオナニー観はファンタジーの要否について180度異なるものと言えるし、いかなる物理刺激を陰茎に与えるかにこだわって日々商品開発されているオナホは彼のような人にこそ意味のあるアイテムと言えるだろう。

 

先ほど、オナホを「物理刺激源かつファンタジー源」として使うことは、この2つの源が分離している一般的なオナニーよりも高次元なものかもしれないと述べたが、私の立場から見ると、この2つが分離している「からこそ」オナニーは素晴らしいという見解になる。なぜかというと、物理的存在をファンタジー源としても使うことは、ファンタジーの広がりに限界を設けることになりうるからである。それがオナホであれ手であれ、その物理的存在から飛躍しない範囲でのファンタジーしか楽しめないとすれば、それは果たして良いオナニーだろうか。私のオナニーは完全に自由であり、シチュエーションであれ女性であれ、非常に多彩であり日々ありとあらゆるファンタジーが繰り広げられている。これは、その妄想世界が手淫の物理的特性と連動していないからこそ可能なのだ。

 

例えば、吉岡里帆のフェラを妄想してオナニーするとしよう。この時、自分の右手がまるで本当に吉岡里帆にフェラされているかのような刺激を与えてくれないと興奮できない、という体質であった場合、自分の妄想が右手の限界によって阻まれ、興ざめしてしまうことになるだろう。だが、その二者を切り離すことで、吉岡里帆にフェラされているという妄想に心の底から没入できる可能性が開けるだろう。

 

そう考えると、もはやオナホの商品開発で努力されている、陰茎にいかなる刺激を与えるかというテーマは、私のような主義を持った人間には全く重要ではないように思える。

 

ことわっておきたいが、私はオナニーにオナホを使う人を下に見たり馬鹿にしたりするつもりは一切ない。オナニー観は人それぞれだ。1つ言えることは、オナホの意義を考えることは、オナニーの意義を考える上で有用なヒントになりそうである。このテーマはいずれもう一度論じたい。