Bustle Pannier Crinoline

バッスル・パニエ・クリノリン

なぜ恋をすると胸が苦しくなるのか


1 恋をすると胸が苦しくなるのはきっと生物としての必要性があるに違いないという仮説


「お医者様でも草津の湯でも惚れた病は治りゃせぬ」という都々逸があるように、恋愛感情が身体に発現させる諸現象が病気の症状に酷似している事は昔から古今東西でよく認識されている。胸が苦しくなったり頭がボーッとしたり思い悩んだり食欲がなくなったり、確かに「恋」はまさに「病」と表現するにふさわしい。


我々はそれを体験的に知っているからそれを恋愛の必然的な性質として受け入れているが、冷静に考えてみると恋愛は誰かを好きになることなのだから苦しくなる必要はないはずではないか。好きなものは本来幸福感をもたらす方が自然なはずである。つまり、恋愛感情に対して病気に似た反応を精神や肉体が示すようにプログラミングされていることは、生物として意味のある事なのではないかという推測が成り立つ。今回はその意味を考えてみたい。


2 そもそも生物の目的は何か


まず、生物の究極の目的は「繁栄」であると定義したい。この定義が正しいかどうかは何百ページもある本で論じなければならないが、それをここでやるのは現実的ではないので、これは正しいという前提でスタートしたい。勿論、この定義が正しいと言って先に進んでもかまわないだけの一定の根拠はあるのだが、それはその定義の先を論じる過程で示していく。


生物の生態を観察する限り、我々人間の多くが生きる目的として自覚しているような「遊び・愉悦」や「それぞれの個体の自己実現」を目指しているようには見えない。延々と土の中にいて、土の外に出たかと思ったら交尾だけしてすぐ死ぬといった種や、群れ全体の生殖を一手に担う女王個体のために奴隷的役割に徹する個体がいる種がいることはよく知られている。


また、殆どの生物はひたすら栄養を求め続けて(一日の大半をエサ探しとエサ食いに費やして)一生を終えるように見えるし、人間のように、生命維持とは無関係な娯楽を持つ様子はほぼ観察されない。


「それは人間の物差しで観察するからそうなるのであって、虫には虫にしかわからない娯楽や個体毎の自己実現があるかもしれない」との反論もあろうが、この文章を読んでいる生物は全て人間の物差しから完全に解放されえない人間の個体なので、そのような可能性は想定しないこととする(知能が高いとされる種からは生命維持と直接関係しない娯楽の存在が窺えることも一つの反駁となろう)。


つまり生物は「生きるために生きている」。


なぜ生きるのかというと、死んでいる個体は繁殖できないからである。


生物が捕食者に捕まらないように身を守るための形質や能力を獲得していくのはなぜか。生き延びて繁殖する機会をできるだけ増やすためである。生物が捕食のため様々な形質や能力を獲得していくのはなぜか。餓死しないため、つまり生き延びて繁殖するためである。異性の個体にモテるような形質や能力を獲得していくのはなぜか。個体が繁殖の機会を最大化するため、そして結果として種として繁栄していくためである。ではそもそもなぜ性別があるのか。それは無性生殖だと遺伝子のバリエーションが多様化しにくく、環境がスタンダード種にとって苦手な環境に変化した時に種全体が滅んでしまうからである。有性生殖で遺伝子を多様化させヘンなヤツが常に生まれるようにすれば、環境がどんなに変化しても必ずその環境に適応するイレギュラーな個体が生き残り種を生き延びさせる事ができる。なぜ我々は本能的に生き延びようとするのか?なぜ我々は未来に希望を見出したいと思うのか?生き延びて繁殖期の可能性を少しでも増やして、種を繁栄させるためである。


「なぜ生物は●●なのか?」というあらゆる問いに対する回答が詮ずるところ「種の繁殖」に行き着いてしまうのである。


我々人間はミジンコやナメクジとは違うので種の保存に反するような行動や思考を辿ったりもするが、我々の非随意的な部分、つまり本能や生体メカニズムに関わる部分は我々が今よりもずっと動物的だった時の名残りであると考える事が妥当であろう。


3 なぜ性欲とは別に恋愛感情というものが生まれたのか


ここでやっと「恋愛」の話に戻る。人間の恋愛感情は必ずしも生殖と直結しないが、我々が動物的だった頃にその由来を求める立場から、恋愛感情は何のためにプログラミングされたのかという命題に向き合えば、それは繁殖にとって有効だったからだという仮説が自然に導かれる。


ここで、別の本能である「食欲」について一旦考えてみよう。


繁栄種としての生物の究極目標。

生命維持繁栄に必要。

栄養摂取生命維持に必要。

空腹栄養摂取に失敗している状態。病気に似た状態(腹に不快感、頭クラクラ、動けない)。苦痛。個体はこの状態から脱したい。

満腹栄養摂取に成功している状態。幸福感。個体はこの状態になりたい。


上記の通り、種の究極目的に辿り着くために、人間の個体は栄養摂取できていない時に苦痛を感じ、栄養摂取できている時に幸福を感じる。


これを性欲に置き換えてみると次のようになる。ほぼ同じ構図である。


繁栄種としての生物の究極目標。

性行繁殖に必要。

性的な欲求不満性行機会を失っている状態。病気に似た状態(ムラムラ、ストレス)。苦痛。個体はこの状態から脱したい。

性的満足感性行機会を獲得している状態。幸福感。個体はこの状態になりたい。


上記のとおり、生殖と直結した性欲なら、食欲と同じように解釈しやすい。しかし、性欲になぞらえて恋愛感情を捉えると疑問点が生じる。以下に具体的な疑問点を2つ挙げる。


【疑問点A

恋愛中は苦しみもあるがウキウキと楽しいものでもある。なぜ恋愛には充足感と渇望が併存するのか。


【疑問点B

恋愛に興味がなかったりパートナーがいない時に繁殖することはまれであるから、恋愛している時の方がしていない時よりも生殖の可能性は高くなっているはずなのに、なぜ繁栄に向かう機会から遠ざかっている時の状態(=病気に似た状態)になる必要があるのか。


私の仮説はこうである。


人間が猿から進化して人間になった頃は、まだ繁殖期に性欲に突き動かされて性行に至っていたと思われる。つまり、性行の相手を獲得していない状態=性行できていない状態=欠乏で、性行の相手を獲得した状態=性行できている状態=満足という極めて合理的かつわかりやすい構図だったと思われる。


一方、種としての繁栄を目指す過程で、人間は(オスがキレイな羽飾りを持つとか立派な角を生やすとかの個体レベルではなく)群全体における食糧の安定供給と安全の向上が種の繁栄にとり最も効果的であるというスタンスに基づく進化の道を選んだと考えられる。そのために共同体(ムラ)を作り出し、それを維持するための社会秩序を作り出し、それらを構成する家族・家庭や倫理といった人間社会の根幹をなす種々の要素が生み出されていったのだろう。


恋愛感情というのは、多様化しまた安定化した社会共同体において、繁殖に向かうための本能が適応して変化したものであると考えられる。そのような生存環境において、先ほど述べた「性行の相手を獲得していない状態=性行できていない状態=欠乏」「性行の相手を獲得した状態=性行できている状態=満足」という構図は必ずしも成り立たなくなっていっただろう。それは、社会秩序や人間関係を維持するためには、「生殖に向かいたい」から「実際に性行する」までの間にあるプロセスが大幅に増える必要があったという事である。こうして、ワイルドなアニマルだった時にはさほど必要ではなかった「生殖に向かう準備はできているが、実際の性行に至ることを社会秩序の壁が阻んでいる状態」を殆どの個体が経験することになったのである。この状態が恋愛感情の起源だと私は考える。


4 恋愛が楽しくもあり苦しくもある理由


そう考えれば【疑問点A】の「恋愛中はウキウキと楽しいものでもある。なぜ恋愛には充足感と渇望が併存するのか」に対する答えも出る。


恋愛感情の起源が「生殖に向かう準備はできているが、実際の性行に至ることを社会秩序の壁が阻んでいる状態」であるならば、


もし恋愛がウキウキ楽しいだけだったら

満たされているので先に進む必要がない

でもまだ生殖はしていないので先に進まないと生殖ができない

→ 種としての究極目的に逆らう


もし恋愛が苦しいだけだったら

苦しいので個体はそこから逃げようとする

普通は恋愛が性行の入り口になるのだが入り口に立つ事から各個体が逃げがちになる

結果生殖の機会が多く失われる

→ 種としての究極目的に逆らう


上記のことから、恋愛感情はウキウキ楽しい側面とモヤモヤ苦しい側面の両方を併せ持つ必要があったと結論する事ができる。


5 恋愛中の方が繁殖期待値が高いはずなのになぜ苦しむのか


さらに【疑問点B】の「恋愛している時の方がしていない時よりも生殖の可能性は高くなっているはずなのになぜ繁栄に向かう機会から遠ざかっている時の状態(=病気に似た状態)になる必要があるのか」についても、【疑問点A】と同様に、人間社会が獲得した社会性に答えを見出す事ができる。


上記4で述べたとおり、恋愛が楽しいだけであれば「生殖までは至らない状態」で満足してしまう。生殖の準備ができた個体が実際に性行に至るまで、非常に多くのハードルを乗り越えなければならないほど社会が複雑化してしまったために、性行相手候補を見つけた個体を繁殖に向かわしめるために背中を押すための「渇望」が必要なのである。


よく「釣った魚に餌をやらない」というたとえを使って、恋愛期間中は優しかった異性が結婚した途端に冷たくなる現象が指摘されるが、これは生物的本能が「この個体は性行へのハードルを全て乗り越えたな」と判断して「渇望」を取り下げたという事の表れなのかもしれない。


6 まとめ

私の考えでは、人間がより確実に繁栄していくための生存戦略として社会性を獲得したところ、その副作用として「生殖に向かう準備が完了している」ことと「実際に性行する」こととの間に大きな乖離ができてしまい、その宙ぶらりんな状態から種として「繁栄」に各個体を向かわしめるために新しく作られた生体プログラムが「恋愛感情」である。


他の生物のように、交尾したい異性個体を見つけてすぐ交尾しているようでは社会が維持できないので、「一緒にいて楽しい、だけど一緒にいられなくて苦しい、安心したい」というときめきと苦しみがないまぜとなった心理的・肉体的反応をもたらす事で、社会の維持と繁殖への志向を両立するという解決策を、人間という種は編み出したと考えられる。


人間社会は複雑化し、必ずしも恋愛感情の先に必然的に生殖があるわけでもないし、恋愛感情自体が生殖と切り離されて様々な文化的意味づけを帯びることになって今に至っている事はいうまでもないが、それでも我々は繁栄を目指すいち生物種であることには変わりないのだから、我々がこの楽しくも厄介な恋愛感情に振り回されるのも生物として選んだ道なのである。