Bustle Pannier Crinoline

バッスル・パニエ・クリノリン

ごめんねと言われても許さなくてもよい

保育園や幼稚園や小学校で、悪いことをした子供がいたら、保育士や先生はその子に「ごめんなさい」をするようプレッシャーをかける。しかし、その子が大人の思惑通りに「ごめんなさい」をした途端に、今度は保育士や先生は悪いことをされた側の子に「許してあげなさい」というプレッシャーをかけることが往々にしてある。

 

非常に教育に悪いからやめたほうがよい。

 

大人が介入してこないと解決できないレベルであれば、悪さの度合いは「ごめんなさい」のたった一言とは釣り合わないはずである。数字で例えると、謝罪が行われる前の両者のステータスは、被害者側はダメージを負っているぶん「ー10」であり、一方の加害者側は「0」である。謝罪によってこのステータスはどう変わるかというと、加害者側は自分の落ち度を認めるという軽度のダメージを負うので「ー1」となり、被害者側は一応謝ってもらえたということでダメージが若干軽減し「ー9」となる。これが繰り返されると、悪いことが行われるたびに被害者側が加害者側よりもステータスが8ポイントずつ下がることになり、両者の差はどんどん開いていく。かわいそうな子はどんどんかわいそうな目に遭って負のスパイラルに陥り、悪い奴はのうのうと生き延びることになる。

 

本来であれば人の嫌がることをそもそもしない子が立派なのであり、そのような子が報われるシステムが構築されるべきである。にもかかわらず、人に悪いことをする人のダメージを軽減し、立派な子の救済を放置するような「ちゃんと誤ったのだから許してあげなさい」という最悪なドグマがのさばっているのが現実なのである。

 

人の嫌がることをした子に対しては、まず謝罪するのは当然として、そこから「それで許されたと思うなよ」という厳しい態度でのぞまなければならない。「こんなにいけない事を自分はしたのだ」と心から痛感するよう、被害を受けた子と釣り合うだけのマイナスを与えなければならない。

 

ただ、悪いことをした子に教育的効果を狙って大人が意図的にダメージを与える(ステータスをマイナス方向に動かす)ことには相当の勇気と技術を要する。一般的には「口頭で叱る」といった方法がよく採られていると思うが、他にも悪いことをした子を反省スペースにいったん隔離する等の方法もある。ここでは何がベストな方法なのかは論じないが、少なくとも個々の保育士や先生の個人的な技量や価値判断に基づいて場当たり的に対処することを求めるのは誤りである。各園や各校で、どのような場合にどのように対処するか、一律でガイドラインやルールが設けられるべきである。その上で、そのルールを受け入れられる親だけが子をその園や学校に通わせることにすれば、保育士や先生も安心してガイドラインに則って対処することができる。責任はガイドラインにあり、それを受け入れた親たちにあるのだから。

 

園・学校側と保護者側がお互いに安心できる形でガイドライン・ルールを設けた上で、悪いことをした子供には必ずダメージを与えるべきである。そうしなければ、「悪いことをしたって大した問題ではないのだ」「悪さをやられた側は大いに損をするがやった側はそんなに損はしないので、悪いことをやる側に回っておいた方がよい」という無意識の成功体験を子供たちに積ませるだけである。まともな社会を維持することに賛成するのであれば、子供を育てる上で「悪いことはしないでおこう」というショックを与えることは必要である。子供にダメージやショックを意図的に与えることは残酷なことだと感じる人もいるかもしれないが、この手のショックを幼少期に原体験として持たない子供が結局一番残酷な大人に育つのである。

 

勘違いしないでほしいのが、子供が悪いことをしたと痛感することは必ずしも大人からの直接の制裁によるダメージであるべきと主張しているわけではない。自分の行いがいかにいけなかったのか気づかせ、おのずから傷つきショックを受け反省するような状況に導くことができればベストであろう。しかし、それを個々の保育士や先生にその場その場で考えてやってもらうというのは荷が重すぎるというのが私の考えである。きっと世の中にはこの点において素晴らしいやり方を実践している園や学校があるだろうから、それをベストプラクティスとして広めていくのがよいだろう。

 

なお、似たような論点として、「●●(おもちゃや本)を貸して」と言われても貸したくなかったら貸さなくてもよいという教育をすべきであるという主張をしたい。もちろん、本来みんなで分け合って遊ぶことが想定されているものを不当に独り占めしている子には、「他の人とちゃんと共有しなさい」と大人が指導することはかまわない。ただ、そこまで不当に独り占めしているわけではなく、他の子と同様に自然とおもちゃを確保して常識的な範囲でそれで遊んでいたのに、他の欲しがり屋さんの子供がその子のおもちゃをうらやましくなって貸してほしいと言ってきた時、自主的に貸してあげた場合は立派な行為としてほめてもよいかもしれないが、逆に貸さなかったからといってそれを不寛容な態度と評価するような空気を作ってはならない。「それでもかまわない。それは基本的にはあなたが使う正当性を有しているのだから」という態度で接するべきである。もし貸してと言われて貸さないことを不寛容扱いするようになれば、後から奪った者勝ちの世の中となるではないか。自分では買わずに「一口ちょうだい」であらゆるお菓子の味見をするようなフリーライダーが勝利することになり、まっとうな手段で手に入れることは馬鹿らしいという価値観を子供に植え付けることになるだろう。

 

このように、正直者がバカを見る世の中を作ることに加担するような価値観が、子供たちの何気ない日常のあらゆる場面に地縛霊のように潜んでいる。我々大人たちは毅然として、まっとうなことをすれば報われるという実例を積み上げ続け子供たちに示し続けるべきである。