Bustle Pannier Crinoline

バッスル・パニエ・クリノリン

手コキ論

AVのみならず風俗においても言えることですが、手コキは過去10~20年くらいで急激に存在感を増してきたプレイです。

 

もちろん、100年前も200年前も、女性が男性の陰茎を手でしごくという動作はあったでしょう。しかし、それは基本的に「代替としての手コキ」であったと思われます。具体的には「膣への挿入の代替としての手コキ」という位置づけが最も多いケースと思われ、この代替性は数百年前と言わず、それこそクロマニヨン人とかその頃からあったとしてもおかしくありません。例えば、陰茎が膣に刺さるほどの硬さに満たない場合に女性が手で刺激を与えて支援するとか、月経等の理由で膣への挿入が為し得ないために代わりに女性が手で射精に導くということは、特定の文化的文脈がなくてもあらゆる時代や文化で自然発生的に且つ同時多発的に起こりうると考えることが自然だと思います。

 

ちなみに、フェラも、もともとは「膣への挿入の代替としてのフェラ」がもともとの位置づけであったと思われます(wikipediaの「フェラチオ」のページの「歴史」の項を見ればフェラが相当昔からあったことがわかります)が、歴史を積み重ねるごとに、フェラ自体が様々な文化的背景やそれによる「趣き」を獲得していった結果、フェラは単なる代替物という枠を超えて、膣挿入と並ぶ存在、もしくは膣挿入を上回るプレイとして位置づけられるに至りました。そして、これと同じような経緯を、手コキが辿りつつある、もしくは近年は「辿り切った」ということなのではないかと思っています。

 

問題は、フェラが単なる代替物以上のものとして見なされるための素質が、フェラの本質 - Bustle Pannier Crinolineで述べたような口周りが必然的に持つエロさにより、かなり早い段階で存在していたと考えられるのに対し、手コキの持つエロさは相対的に必然性が低いということです。手コキに対する女性側の抵抗感はフェラよりはるかに小さいと思われますが、それがかえって、エロさの尺度では挿入やフェラの足元にも及ばないものと位置づけられやすくなってしまうのです。

 

では、なぜ過去10~20年くらいで手コキがAVや風俗における市民権を獲得したのでしょう?それは、逆説的ですが、まさにAVや風俗が発展してきたからこそ、手コキの地位が確立したと言うべきなのです。

 

売買春が違法とされる日本において風俗は、「たまたま風呂屋で出会った湯女と自由恋愛した」という建前(ソープランド)か、「性器の挿入がされてないから売買春じゃないもん!」という建前(本番なしのヌキ系風俗)の2通りの方向性で発展してきたと思います。AVにおけるモザイクなども後者の建前と同根ですね。そして、後者においては、膣への性器挿入以外の方法で客を射精に至らせる必要があり、そのバリエーションというのは基本的には素股、フェラ、手コキ(次点でパイズリ)しかないのです。なぜなら、風俗を利用する男は原則として女性の肉体により射精することに価値を見出しており、時代が変わっても女性の身体の構造は変わらないので、どんなに科学やテクノロジーが発展しても女性の身体を使って射精に至るほどの刺激を与えられるようなプレイは限られてくるからです。そして、この文脈で手コキがフェラや素股とともに「膣挿入以外の必殺技」の1つとしてカウントされ続けた結果、文化的背景や「趣き」の蓄積を経て、「膣への挿入に勝るとも劣らない」という意味でフェラと同等の地位を手に入れたということがまず1つあります。

 

また、ヌキ系風俗のフィニッシュ・オプションとして手コキを選ぶ男性が、20~30年前と比較して近年の方がだいぶ多くなっているとどこかで読んだことがありますが、この理由はAVの発達により男性の手淫が拡大したことが理由ではないかと考えられます(ちなみにAVの発展がVHSの一般家庭への普及とレンタルビデオ屋の登場によりもたらされたことはよく指摘されていることです)。手淫自体は太古の昔からあったと思いますが、文化としてのオナニー史における最大のパラダイムシフトは、オナニーのオカズが静止画から動画へと変わったことでしょう。AVは、静止画よりもはるかに多くのことが表現できるため文化的にも奥行が生まれ、また当然刺激も静止画より強いです。したがって、AVの登場により、日常的に陰茎に激しい刺激を自分で与える人口や、一人あたりがそれに費す時間が大幅に拡大したことは、間違いありません。結果として、手による刺激が最も気持ちよく(そして最も上手く)イケるという手淫体質(ひいては膣内射精障害)の男性が増え、風俗においても人気オプションとなったのです。

 

また、上記の経緯により、AVそのものにおいても手コキシーンが単なる挿入の代替物という以上の存在意義を持つものとして扱われるようになったというわけなのです。

 

ここで紹介しておきたいのが、AV関係者が指摘する手コキの意義です。ソースは忘れましたが、AVで手コキが重要な理由としてAV関係者が挙げていた理由はこのようなものでした。

 

①フェラや膣内射精では、精液が発射される瞬間を女性が見ることがない。精液の発射を見て女性は様々な反応を示す。うっとりしたり、大喜びしたり、びっくりして泣き出したり…そのような反応が見られるのは手コキだけ!

②フェラ中はしゃべれない。せいぜいフェラを中断して「気持ちいい?」等を言うのが関の山であるが、手コキであれば、いつでも言えるのみならず、言える長さも変わってくるので当然言う内容の質も全体として向上、AV演出としての可能性も広がる。

 

これらは、まさに手コキが獲得してきた「手コキならではの魅力」の例だと思います。

 

最後に、私自身が考える手コキの意義についての分析を紹介して終わります。

 

手には、口周りがそうであるように、それ自体に秘められた重要な意味があるのではないかと思います。それは、「コントロール性」です。「掌握」「把握」「手のひらの上で踊らされる」「手を下す」「手を加える」といった熟語や表現を考えれば明らかですが、手というのは、何かを支配し操作するという「圧倒的な主体性・随意性」の象徴なのです。実際には人間は随意運動により手に限らずほぼ全身の主要な部位をコントロールしている事を考えれば、この象徴的な意義づけは心理的なものと考えられます。翻って手コキを考えてみれば、どうでしょう。男性にしてみれば、自身の陰茎を女性の性器や口や乳房に預けるとすると、もちろんそれらが快感を与えてくれはするのですが、手に預ける場合と比べて、相手の「操作・コントロール」のもとに置かれる感じは弱いのではないでしょうか。自分の陰茎が女性の「圧倒的な主体性・随意性」のもとに置かれ「相手の自由にされてしまう」感覚こそが、手コキの醍醐味であり、また手コキに単なる膣挿入の代替物以上の存在としての地位を与えるものなのではないでしょうか。

 

そして、手コキが射精オプションとして普及することで、上記のAV関係者や私が指摘したような手コキの醍醐味が広く認識され、さらに手コキが普及する、という正の連鎖によって、過去10~20年の手コキの躍進が起こったと言えそうです。