Bustle Pannier Crinoline

バッスル・パニエ・クリノリン

「スベる」ということへの考察と提言

お笑い的な意味の「スベる」という概念に関連して少し書いてみたい。本稿では、面白いことを言おうとして言うこと一般を「冗談」という言葉でまとめて表現することとする。これには、単発のジョーク、ギャグ、シャレ、モノマネ、一発芸といったものから、面白エピソードの披露やユーモアを利かせたコメント、漫談のようなものまで幅広く含んでおり、お笑い芸人の芸から一般人の会話の中の何気ないジョークまでをカバーしていると捉えていただきたい。

 

 

1 発信者が用いるべき面白さの基準

先に結論を書く。

自分が発信する冗談は、自分自身の感覚やセンスのみに準拠して面白さの度合いや成功・失敗を評価すべきである。

 

もちろん実際には「自分が面白いと思う事」と「他人とか世間が面白いと思う事」が全く被らないという事にはなかなかならないだろう。しかし、ここで言いたいのは、自分の感覚と世間の感覚がズレていた時にすべき事は、自分の感覚を劣後させる事ではないだろうということに尽きる。世間と自分の感覚が一致しているなら、特に議論の余地はない。

 

他の反論として、世間の反応を全く気にせず世間の評価に全く影響を受けずに生きていくことは現実的にはできないのではないかという論点がありうるだろう。これについては、他者から良い反応を得る事を目標にするのは収入を得るためとか今いるコミュニティで生き残るための手段であればやむをえない事であると言うべきである。例えば、お笑いで得る収入で生計を立てている場合や、いじめを受けている子供が周りを笑わせる事でいじめられなくなろうとしている場合などがそれにあたる。このようなケースであれば、いかに他者の価値観に沿うか(ウケるか)は死活問題である。このようなケースを例外とし、そうでない場合は他者の笑いの感覚に準拠して自分の発信する冗談・ジョークを評価することは理にかなっていない。

 

なぜなら、人間は自分の脳でしかこの世界を知覚できないからである。もしテレビゲームのキャラ選択画面のように「使用する脳」を複数から選べれば話は別だが、現実的にはこの世界には「自分の脳が面白いと感じる事」以外に「面白い事」は存在しないことになる。

 

「自分は面白いと感じるが周囲はつまらないと感じる内容」と「周囲は面白いと感じるが自分はつまらないと思う内容」が両方頭に浮かんだとして、もし後者を選んで言うという事を続けて生きていくとしたら、つまらない事を言い続けて「あーつまらないことばかり言ったな」「自分が面白いと思う方の内容は捨てて生きてきたな」という人生を送ることになる。この生き方が正しいと思う人はいないであろう。

 

そもそも、なぜ人は冗談を言うのかを考えれば、周りを明るくしたいから、自分のストレスを軽減したいから等様々であり、他人向けや自分向け等いろいろな向きの矢印が描きうるだろうが、それら全ての矢印は「そうやって自分が幸せを感じたいから」に辿り着くはずである。そしてそれは、自分が面白いと感じる事を通じてしか実現しないはずだ。「自分が面白くないと感じる冗談をあえて言って、それで誰かが笑ってくれて、それを見て自分が幸せになった」という状況はもちろんあり得るが、それは結果的にあり得るというだけであって目指すべき状況とはいえない。

 

2 「スベる」という概念

ここで、冒頭で述べた「スベる」という概念に立ち戻りたい。

 

「スベる」とは、筆者の認識では1990年代頃からお笑い芸人がテレビで使い始めたことで一般的に普及した言葉であり、冗談に失敗することを指す。

 

この失敗というのは、一般的には「ウケなかった」という意味であるが、「ウケる」「ウケない」という言葉は、元々の日本語である「受ける」という言葉から考えて、冗談を聞いた側の反応に準拠した言葉であることは明らかである。(ウケるというのは、お笑いだけでなく市販の商品やお母さんが作る晩ご飯のメニュー等についても、人気を博すとか売れるという意味で使われるが、受け手の反応によって定義されるという点は同じである。)

 

本稿における「スベる」の定義は「ウケなかった」という意味、すなわちそれを聞いたり読んだりした人にとって面白くなかったという状態に絞ることとしたい。なぜなら、仮に「スベる」の意味を「面白くないことを言う・する」と定義してしまうと、本稿の主張である「面白いかどうかを発信する時は発信者本人にとって面白いかどうかが重要」という文脈の中では、「スベる」という言葉が「自分自身が面白くないなぁと感じる事を言う」という意味になってしまい、実際に使われている用法から著しく乖離してしまうからである。

 

先ほど、面白さの判断基準を他人の脳味噌に委ねるべきではないと書いたが、「ウケる」事を目指し、「ウケなかった」=「スベる」と定義するのであれば、プロのお笑い芸人ではない者にとっては「スベる」かどうかは重要ではないという事になる。

 

3 「スベる」という概念の害への対処①受信者の心構え

「スベる」というのは自分の外に基準を置く他律的概念なので重視されるべきではないという事を明らかにした以上、「どうすればスベらないか」という問いは不要である。一方、これで「スベる」を巡る問題が解決したわけではない。問うべき問いは「スベるという概念のせいで発生する問題をどう減らしていくか」である。第3節と第4節では、それぞれ冗談の受信者と発信者の立場からこの問いに答えていく。

 

まず、受信者の側であるが、「スベる」という概念の普及がもたらした最大の弊害は「誰もが冗談を裁定する側として振る舞いやすくなる環境を作った」事である点を指摘したい。友人や知人に対して何の躊躇もなく「お前スベってるよw」「今のスベったな」等と偉そうに評価してくる奴があなたの身の回りにもいるのではないか。もちろんお笑いを評論するのは個人の自由である。だが、先述した「なぜ人は冗談を言うのか」の原点に立ち返ってみてほしい。それは「幸せを感じたいから」であったはずだ。たまたまそこに居合わせただけの友人・知人が、何の権限があってお笑い審査員として「面白くない」という否定的な裁定をノーリスクで他者に叩きつけることができるのだろうか。そのような行為が横行する世の中が、冗談を通じて幸せを感じやすい世の中と言えるだろうか。 

 

むしろ、その視点から目指すべき世の中像は、相手の冗談をけなし合う世界とは逆の様相を呈しているはずである。具体的な行動としては、①一見面白くない冗談の中から面白い側面を発見して評価する、②面白い側面が見つけらなければ、その上に自分が面白いことを被せて発信する、の二通りが考えられる。②は受信者が発信者の役割をと果たすことになるので本来は次の節で論じるべき内容であるが、実際には評論家になることに比べ発信者になる事ははるかに難しいので、誰にでもできることではない。評論家にしかなれない受信者は、自身の能力不足を自覚し、せめて①を心がけるべきである。自分が「冗談を通じて幸せを感じられる社会」に貢献するどころか逆にそれを破壊する方向の振る舞いをしていないか、「スベる」という言葉を自分がどう使っているかのチェックを通じて確認することが望ましいだろう。そして、プラスの貢献ができないのであれば、せめて負の貢献をしないように振る舞うべきである。

 

4 「スベる」という概念の害への対処②発信者の心構え

続いて、冗談の発信者が「スベる」という概念により生じる弊害をいかに避けるかについて論じる。

 

基本的には「スベる」ことを恐れなければよいのだが、実際には他者から評価されないと、周囲から迷惑な存在として煙たがられたりして、自分では面白いと思う事を言い続けても幸せを感じにくくなってしまうので、もう一歩踏み込んだ対策が必要である。

 

受信者が何を面白がるかをマーケティングするという行為は、金儲け等のために必要な場合のみでよいというのは既に述べた。

 

私が冗談の発信者に提案したいのは、「受信者に媚びるのではなく、受信者を教育する」というスタンスである。換言すれば、自分が聞き手の好みに迎合するのではなく、聞き手の好みを自分の方に引っ張るという事である。

 

ここで、一つ冗談やお笑いから離れた例え話をしたい。東京ディズニーリゾートに行ったことのある人は、カストーディアル・キャスト、通称「カストさん」と呼ばれる掃除係が異様な神経質さと迅速さで園内のゴミを拾いまくっていることに気づいただろう。それを見た人は普通「ゲスト(お客様)に常に美しい園内環境を提供したいからそうやっているんだろうな〜」と漠然と思うだけだろう。そしてそれは結論としては正しいのだが、運営側がこの事についてかつて言っていたのは、神経質なまでの清掃の徹底を通じて「ゲストを教育している」んだという事である。つまり、ゲストの見ている前で「ちょっとしたゴミでもいちいち神経質に回収する」「汚した箇所はできるだけ速やかに綺麗にする」という行為をやり続けることで、ゲストの無意識層に「ここは、いかなるゴミもポイ捨てしてはいけない、綺麗に保たなくてはいけない場所なのだ」という感覚を叩き込んでいるというのだ。確かに、パークを汚すのはゲストなのだから、ゲスト一人一人がパークを汚さないように気をつけるよう意識を高めることが、結果的にはゲストに常に美しいパークを提供する最も有効な手段ということになる。

 

このエピソードの構造は、「本来自分(運営側)の視点から発生する価値判断(パークを綺麗に保ちたい)を、その価値判断をその結果(美しく保たれたパーク)とともに相手(ゲスト)に提示し続けることで、相手の中に自分と同じ視点を構築する(ゲストが自分からパークを綺麗に保ちたいと思うようになる)」というものだ。これを冗談の発信になぞらえると、「冗談を言う側が、冗談とともにそれを面白がる感覚を、聞き手に提示し続ける事で、いつしか聞き手もその面白がり方を内在化し、その冗談を面白く感じるようになる」という事になる。

 

笑いの感覚というのは味覚に似ているといえる。子供の頃はただ苦い・クセが強いと思えたものも舌が経験を積む事により味わいと感じられるようになるように、いろいろな冗談に触れるうちに、今まで面白いと感じなかった面白さの角度・アプローチの仕方(俗に言う笑いのツボ)を面白がれるようになっていく。

 

しかし、「冗談とともそれを面白がる感覚を提示」するというのを具体的にどうやってやればよいのかという点は、お笑いを生業にしている者にとってさえも難しい問題と思われ、ましてや素人一般人にとっては現実的には相当困難な事であろう。基本的な作業としては、自分が面白いと思った事についての「追いコメント(いわゆるセルフツッコミを含むがそれに限らない)」が主たる要素となる。これについては今後機会があれば深堀りしたいが、ここでは論点が拡散してしまうし、すでに本項は長すぎるので割愛する。

 

5 まとめ

我々は自身の感覚に基づく知覚を通してしか世界を認識できないのだから、自分が面白いと感じる事以外に面白い事は存在しないと心得るべきである。

したがって、特に生活する上でそうする必要がない限りは他人が面白いと感じる冗談を言おうとすべきではなく、自分が面白いと感じる冗談を言おうとすべきである。

その観点から、他者の感覚に価値判断の基準を置いた「スベる」という概念は有害である。

冗談を聞いた側は、他者の冗談を「スベってる」などと評論する事は誰の幸せにも貢献しないので、聞いた冗談の中に面白さを発見するか、もしくはその上に面白い冗談を自分で被せる方向に向かって努力すべきである。

冗談を言う側は、他者に面白がってもらえるか心配するのではなく、自分がなぜこの冗談を面白がるのかという面白がり方を聞き手に提示し続ける事で、聞き手のお笑い的な感覚を育んであげるというスタンスを取るべきである。