ツイッターを料理にたとえると
ツイッターほど使う人によって使い方が異なるツールも珍しい。ツイッター観の違いについて、料理の比喩を思いついたので披露したい。
ツイートする行為を料理だとしよう。
そして、料理といっても、ツイッターの世界は料理や外食にかかる経済的コストはない世界だと思ってもらいたい。作る側としては、手間はかけてるけど、食材とか光熱費とかはタダ。で、食べる側としても、あらゆるレストランのあらゆる料理が無料。(ツイートしたり人のツイートを読むのが無料であることを意味する。)
ツイッターの世界にいる人の多くは、自分の料理をできるだけ多くの人に食べてもらって評価されたいと思っている。この人たちは、いわばレストランを営んでいて、口コミが爆発的に伝わったりして有名になりたい、そして事業を拡大したいと望んでいる。
でも、自分で作ったものを食べたり、友達とお互いに料理を作りあって美味しいねって言い合えればそれで満足、というかそのためにツイッターやってる、という人もいる。この場合はレストラン経営者ではないし、拡大の必要もない。
で、僕はというと、ツイッターを始めた時は「僕はメチャクチャ美味しい料理が作れるぞ!みんな僕の料理を食べたくてしかたないに違いない!いや〜参ったな、自分が好きで自炊してるだけなのに、自炊メシを分けてくださいっていう行列ができちゃうよ〜」と思っていた。
しばらくして僕は、自分の料理はツイッター世界において大して美味しいほうではないということ、そして別に僕の手料理を食べたい人なんてそんなにいないということ(味付けも全く万人向けではないし)を理解した。
今や、あくまでも自分用まかないとして毎日三食を作るただの“料理が趣味の人”になっているという感覚である。
ここで述べたいのは、前述のような変化はあるものの、僕は一貫して、レストランを営業しようとは思っていないということである。
料理を褒められたいという気持ちがメチャクチャ強かったのにみんなからそっぽを向かれていたあの頃も、自炊しているだけなのにたまに炊き出しのように行列ができることのある今も、「これは自分が食べる用のご飯だ」という感覚が変わったことはない。したがって、今世間でこの料理がブームだから客引きのためにその料理を作ろうとか、自分自身としては好きな味じゃなくても世の中にできるだけウケる味にしようとか、そういう事を思ったことはない。だから、たまにゲテモノ料理やマイナー食材を使った料理を作って周りから眉をひそめられる中で一人で舌鼓を打っていることも多い。
僕は自分のゴハンが好きだけど、もちろん他の人が作ったメシもよく食べに行く。行く店はいつもだいたい決まっている。こんな凄い料理僕には作れない!って感動しながら食ってる。もし実際の料理人だったら、自分の店に食べにきて欲しいがために(いわば恩を売るために)大して好きでもない店に足を運んでお世辞を言う人は普通いないだろう。でも、ツイッター世界にはそういう料理人も残念ながらいる。
お客さんがほめてくれなかったから失敗作だと言って自分が美味しいと思って作った料理をゴミ箱に捨てたり、自分の信念はそっちのけで食べログの星ばかり気にするような料理人もいるらしい。それは現実のレストラン経営者であれば生活がかかっているぶん理解できるのだが、ツイッター世界では外食は無料なので、僕としては理解に苦しむところではある。でもまあ好きにやればいい。僕だって自炊料理人とはいえ人から料理哲学についてあれこれ言われたくないし。
とにかく僕にとってのツイッターは、あくまでも自炊して(自分が読むためにツイートして)たまに外食して(他の人のツイート読んで)という生活の中で、ふと気づくと僕の鍋から自由によそって食べてる人がいて「あ、自分用に作ったやつけど、それを食べたいという人がいるのは素直に嬉しいし、褒められたら悪い気しないね」というだけのことなのである。
たまにメチャクチャ人に食べてもらいたくなる日もあるけどね。