Bustle Pannier Crinoline

バッスル・パニエ・クリノリン

エロコンテンツは女性の地位を貶めない、むしろ高める。

  このブログ記事は、“男性向けのポルノやセクシーなグラビアなど(以下便宜的にエロコンテンツと呼ぶ)が女性の社会的地位を貶めることに繋がっている”というような指摘がいかにおかしいかを論証し、むしろエロコンテンツは女性の社会的地位向上に貢献する存在になりえると提唱する文章である。 本稿では第1節で、いったんエロコンテンツの話から離れて女性の社会的地位を貶めているものは何なのかを探る。第2節で「エロコンテンツは一般的に女性を貶める」という説を反証し、第3節では、エロコンテンツがむしろ女性の社会的地位を向上させる可能性を指摘したい。 

 もちろん筆者は女性向けポルノの存在を認識しているし、それが女性の社会的地位にもたらす影響を論じるのは興味深いが、ただでさえ論点が拡散しすぎているので、ここではあくまでも男性向けのポルノやセクシーグラビアだけを「エロコンテンツ」と定義したうえで、男性を喜ばせるエロコンテンツと女性の社会的地位との関係に焦点を絞ることとする。

 

第1節 女性の社会的地位を貶めているのは何なのか

  • 結果の男女平等を目指すことはかえって女性の自由意志を阻害する

 日本における女性の社会進出は欧米諸国と比較して遅れているとしばしば指摘されるが、その手の社会数値指標は単純に国会議員や企業の幹部に女性が占める割合といった結果の平等を計測していることが多い。日本では教育の機会は男女平等に与えられているし、女性が国会議員や企業の幹部になる上で障害となる法制度はない。むしろそのような地位を目指す女性たちが一様に口にするのは制度的な障害ではなく「ガラスの天井」と言われるような見えない差別である。だが、「ガラスの天井」は“上昇”を志向した者だけがぶつかるものである(議員や幹部を目指すことを“上昇”と呼ぶべきなのかはともかく)。「ガラスの天井」にぶつかる女性だけに着眼しても社会全体の男女平等を論じたことにはならない。たとえば、もし国会議員になりたいと思う人が女性には0.01%しかいなくて男性には0.1%いたとしたら、たとえ男女平等が実現した社会においても国会議員の男女比は半々にはならないという事である。

  では国会議員を目指す女性を増やすべきか?社会全体の利益という視点で見れば、女性の意見が国会にもっと反映されるように女性議員を増やした方がいいだろう。だが個々の人生という視点から見ればそうとも限らない。職業選択はその人の生き方の問題なので、周りが「女性の地位向上のためにあなたは議員を目指しなさい」と言うわけにはいかない。

 つまり、結果の平等だけを目指すことは個々の女性の自由意志を軽視することになり、かえって女性の地位を低下させるということである。結果平等主義が主張に通底する論者はフェミニストの皮を被った女性の敵であるということは、ここではっきりさせておく。

 

  • 2種類の非制度的バリア ~「歩きだした結果ぶつかる壁」と「歩き出せなくしている壁」~

 女性を公然と差別する制度が存在しない社会では「ガラスの天井」などの目に見えない障害、つまり非制度バリアの解消に取り組むことが望ましい。

  「女なら結婚したら家庭に入って仕事をやめろ」「家事や育児は女がやるべき」「その歳でまだ良い相手もいないのか」「女のくせにはしたない、慎ましくしろ」女性ならこれらの不当な圧力を公然とかけられた経験があるのではないか。これらのジェンダーバイアスが、制度とは異なる次元で女性の可能性を抑圧するのである。

 国会議員の例えで言えば、自分の意思で議員を志したのに「女のくせに男にたてつくのか、やめておけ」「女に政治は無理だ」などと言われて、男なら得られていたであろう支援が得られなかったとしたら、これは非制度的バリアだ。

  ただ、この手のバリアは、一度自分の意志で茨の道を歩むと決意したという意味では、本人が頑張りで困難を突破していくことが十分ありえる分まだマシである。これが「歩き出したためにぶつかる壁」である。

 より深刻なのは「歩き出せなくしている壁」の方である。なぜならそれは社会レベルと個人レベルの両方で女性を抑圧しているからである。「歩き出したためにぶつかる壁」は結果の不平等をもたらし社会レベルでの女性の地位低下に繋がるが、それでも個人の自由意志の発露を許している。一方「歩き出せなくしている壁」は後者さえも封じ込めているのである。

 「歩き出せなくしている壁」の正体は「ロールモデルの不在」と「ジェンダーバイアスのかかったモデルの偏在」の2点である。次で詳しく見ていこう。

 

 ロールモデルというのは職業に限った話ではないのだが、わかりやすくするため職業で例を出してみる。我々には職業選択の自由があるが、自由があるというだけではどんな職業にでもなれるわけではない。知らない職業にはなれないからである。

  かつて海上保安庁は一般にさほど知られていなかったし、聞いたことはあるという人からも海上自衛隊とゴッチャにされたり、警察組織の一部と思われたりしていたが、漫画「海猿」のヒットと映画化により認知度が飛躍的に向上し、今や潜水士などは憧れの職業として女性にキャーキャー言われたりもしている模様だ。エンタメが子供たちに職業あるいはもっと広い意味での大人としての在り方のモデルを提示し、子供たちは無意識のうちにそれを取り込んで大人ステージでの選択肢を考えていくというパターンの好例が「海猿」なのである。

 漫画でいえば「YAWARA!」という作品もある。それまで柔道といえば武骨な男のスポーツであり、それを敢えて女性がやるという女子柔道は明らかにマイナースポーツの類いだったのが、この作品によって世間からの認知がまるで変わったことは周知のとおりである。この作品がジェンダー論の文脈からみて非常に興味深いのは、それまで「お前は女三四郎だな」と呼ばれていた女性柔道家が「君はヤワラちゃんだね」と言われるようになるという変化をもたらしたという点である。これは、男性の亜流(「女」+「三四郎」)としてしか定義しにくかった女性柔道家を、男性のコピーではなく女性単独でオリジナルな存在として確立させる上で、漫画「YAWARA!」がロールモデルとしての役割を果たしたということである。

  わかりやすいよう漫画を例に出したが、ロールモデルというものはエンタメでなくても構わないし、むしろ伝統的には家族などの身近な存在が典型的なロールモデルにあたる。そもそもロールモデルがあって初めて人は何かを目指そうと思えるということになるのだから、ロールモデルの不在は、制度的な障害の有無以前の段階で、自由意志の発露や十分に潜在能力を発揮することを妨げることになる。したがって、女性の可能性を様々な方向に発揮するためのロールモデルが男性のそれよりも圧倒的に少ない社会は、女性を貶める社会構造を持ってしまっているといえるだろう。

 

 「ロールモデルの不在」が「マネしたいお手本がないという問題」ならば、「ジェンダーバイアスのかかったモデルの偏在」とは「マネすべきでないお手本しかないという問題」である。

 テレビ番組や本、雑誌、インターネットコンテンツなど、様々なメディアの中に、女性は当然こうすべきである/こうすべきではないといった言説や、それを前提にした設定・描写があふれている。わかりやすいようにまた漫画を例に出すが、「クッキングパパ」という漫画がある。「クッキングママ」という漫画は成立しえない。ママが料理をするのは当たり前で、料理をするパパは珍しいという前提があるからこそ成立するタイトルである。

 しかし「クッキングパパ」だけを槍玉に上げるのはフェアではないと言えるくらい、より一般的なジェンダーバイアスはそこかしこに満ちている。もちろん、それは一概に悪いこととは言い切れない。すべての物事を完全にフェアにすると、いかなる発言もできなくなるし、物事を単純化して区別することでこそ人間の世界観は整理されるからである。ただ、ここではそういう原理的な話ではなく、ジェンダーバイアスが商業と結びついているという点に着眼すべきである。例えば、「女の子は可愛くなろう」「素敵な恋愛をしよう」といったメッセージは、一見すると多くの女性が生まれながらにして持つ内発的動機を外界が単にエコーしているだけのようにも思えるが、実際はそのような価値観を前提にしたエンタメが多くの商業広告とともに押し寄せてくることで、我々はそのような行動に向かわされているのである。テレビや雑誌やインターネットなど、そして広告が一切ない社会をイメージしてみてほしい。そこでも女性は今しているのと同じ口紅を求めて店を探し歩き回ったり、フルーツの乗ったパンケーキと一緒に収まった写真を撮って現像し友達に見せて回ったりするだろうか。我々が自然と見聞きするものの中に、女性はこのように行動しましょうという「指図」が溢れている。我々がそれに振り回されずに自由意志を発露しようとしても、女性はこうすべきという枠組みが取っ払われた発想をすること自体が難しい。

 

  • 第1節まとめ

・平等には機会の平等と結果の平等があるが、結果の男女平等を追求することはかえって女性の自由意志を阻害する。

・機会の男女不平等を生む原因には制度的バリアと非制度的バリアがあるが、日本では目立った制度的バリアはないので、非制度的バリアに取り組んだほうがいい。

・非制度的バリアのうち、女性とはこうあるべきという枠組みに囚われずに行動した人がその結果としてぶつかるバリアもあるが、自分の意志で動き出している分解決の見込みは高いだけマシ。そもそもそのような枠組みに囚われた発想からしかスタートできないというバリアの方が問題。

・後者の非制度バリアの正体は、ロールモデルがいないことと、ジェンダーバイアスのかかったモデルしかいないこと。

 女性が子供の頃からこれらの2つの要素から成る「歩き出せなくしている壁」に晒されて育つ以上、女性の社会的地位の問題は再生産され、踏み固められていくのである。(もちろん、これと全く同じことが男性にも言えるが、本稿ではエロコンテンツが女性の生き方に与える影響を論じるのが目的なので、男のジェンダーバイアスについては追求しない。)

 

第2節 エロコンテンツは女性の社会的地位を貶めるものに該当しているのか

  • 子供の男女観はAVによって作られてはいない

 AVやエロ本には女性に対する「歩き出せなくしている非制度バリア」が存在することへの責任があるのだろうか。答えは当然NOであろう。そもそも子供はAVもエロ本も見ていないという点に留意する必要がある。勿論ちらっと見ている子もわずかにいるだろうが、そのような微々たるケースよりも圧倒的にエロコンテンツ以外の要素の方が子どもの男女観に与える影響が大きいだろうことは誰でもわかるだろう。子供の頃から「歩き出せなくしている壁」に晒されて育つことが女性の社会的地位の問題を再生産していると第1節の終わりで述べたが、原則として子供の目に触れないエロコンテンツは、その過程において主要な役割を果しえないのである。

  • 女性だけを描いたエロコンテンツで男女の役割分担の平等性を論じることの愚

上記の一点だけで十分に論破可能なのだが、一応もう少し丁寧に論じる。まず、エロコンテンツはそもそも何らかのジェンダーモデルを提示しない。エロコンテンツは、ひたすら女性を中心に描きながら男性に訴求するという特殊な構造をしている(この記事においてエロコンテンツは男性向けのみを指すことを想起されたい)。AVには男性も登場するが、それはオナニーをする上で便利なように便宜的に道具として登場しているだけであり、ユーザは男性を見たくてエロコンテンツを見るわけではない。したがって、エロコンテンツの中で女性が何らかの職業や社会的役割を演じていたとしても、それは男女ともにいる中であえて女性に積極的に割り振られたものではなく、エロコンテンツにおける事実上唯一の登場人物である女性がそれをやっているに過ぎないという点に留意する必要がある。

例えば「AVを見たら裸エプロンの女性が料理をして、男は手伝わずに食事していた!これは男女差別の温床だ!」と文句を言う人はいないだろう。エロの観点から女性に裸エプロン姿になってほしくてそういう演出をしているのだから、男性が料理するはずはない。男性が料理したら男性が裸エプロンをしなければならなくなるが、そんなものは誰も見たくない。

言い方を変えれば、エロコンテンツにはジェンダー的に適切なロールモデルが登場しえないのである。それを批判することは、女性更衣室に男性トイレがないことを怒るようなものである。

その上で、「エロコンテンツにはジェンダーバイアスのかかったロールモデルしか登場していないから問題である」という指摘についても念のためカバーしておく。まず、仮に女性が特定の役割ばかりをエロコンテンツの中で果たしたとして、それはAVが発明したり発達させた文化ではなく、ドラマや漫画といった非エロメディアで構築されたフォーマットを踏襲しているだけである。そういった見慣れた設定にこそエロを感じるから製作者がそのような設定を選んでいるだけであって、非エロメディアがジェンダーバイアスから完全に解放されればエロコンテンツも自然とそうなるはずである。

たとえば、先日見たAVでは風邪をひいた男性社員のところに女性同僚がお見舞いに来て家事をしてあげるという設定が登場したが、そのような設定が採用された背景として、世の中の男性には「自分が弱っているときに自分の面倒を見てくれる女性にグッとくる」というエロとは無関係の認知が先に存在していて、そのツボをくすぐるために後からそれを踏まえたAVが作られたのであって、順番はその逆ではない。

 つまり、非エロコンテンツがジェンダーバイアスのかかったストーリーや設定だらけである時に、それらを責めずに、単にそれらを模倣もしくは流用しているだけのエロコンテンツだけを取り上げて責めるのはお門違いである。

  • 第2節まとめ

・そもそも子供はエロコンテンツを見ないので、人はエロコンテンツを通じて女性を貶める社会認知を獲得すると思うのは間違い。

・また、エロコンテンツは基本的に女性のみを登場人物にしているので、エロコンテンツにおける男女間の役割の差異を論じること自体が無意味。

・エロコンテンツにジェンダーバイアスがあったとしても、それは必ず非エロ発祥なので、エロコンテンツを責めるのは間違い。

 上記のことからも、ロールモデルの不在やジェンダーバイアスのモデルの問題がエロコンテンツとは無関係であることが明らかである。したがって、エロコンテンツが女性の社会的地位を貶める存在であると主張することは詭弁であることが十分に明らかになった。

 

第3節 女性の地位を高めるエロコンテンツ

 これまでエロコンテンツが女性の社会的地位を貶めている戦犯だという説は濡れ衣であることを論証してきたが、ここからは一歩進んで、むしろエロコンテンツは女性の地位を高める存在ではないかという仮説を立て、その根拠となりうる視点をいくつか挙げてみたい。

 

  • 女性なくして成り立たない業界を育てるという視点

 男性の性欲を満たすために女性の性が搾取されているのがエロコンテンツ産業であるから、エロコンテンツの存在自体が悪であるというのは、たまに急進的なエセフェミニストが主張する立場である。だが、エロコンテンツ産業に女性を不当に害する側面が見られがちであるということと、エロコンテンツ産業をなくすべしという議論は全く別のものであることは明確に述べておきたい。

 エロコンテンツ業界の一部に見られる、女性を不当に害する行為の代表的なものとして「困窮者、知的障碍者、知識や経験の浅い子供などの社会的に弱い立場にある女性をその弱みに付け込んで性的搾取の対象とする」「性の自己決定権がないような幼い子供を性的に搾取し肉体的精神的に取り返しのつかないダメージを与える」「不当な契約を巧みに結ばせたり、親や学校・職場へバラす等の脅迫をしたりして本人の同意の範囲を超えて撮影や流通を行う」といったものがあるだろう。これらは断じて許されるべきではなく、“エロコンテンツに限らず”そのような違法行為や人権侵害をなくしていくべく国、企業、そして消費者がそれぞれの立場で努力していくべきである。

 逆に言えば、これはエロコンテンツに限らない普遍的な問題であり、そのような問題が存在するという理由でエロコンテンツ産業自体を女性に害をなすものを決めつけるのは合理的思考ではない。そのような短絡的な主張を受け入れるのであれば、人身売買や児童労働により不当な環境下で女児が収穫したカカオが存在するという理由で、チョコレート産業についても女性に害をなすものとして消滅を主張せねばならなくなる。現にダイアモンド利権の奪い合いにより一部アフリカ諸国で深刻な人道危機が見られた際に、そのような経緯で製造されたダイアモンドを「血塗られたダイアモンド」と定義して市場から排除する試み(いわゆるキンバリー・プロセス)がなされたが、エロコンテンツ全体が悪だと決めつける人たちは適切な人権環境で製造されたダイアモンドも含めすべて拒否して生きているのだろうか。「AVなんて汚らわしいざます!」と顔をしかめるエロコンテンツ全否定オバサンがいたら宝石箱を開けて見せてもらいたいものである。

 これは非常に重要なポイントだと思うのでそのつもりで読んでもらいたいのだが、エロコンテンツの構造を「男性の利益のために女性が利用される」という図式でしか理解しないこと自体が女性を“舐めている”行為だということにエロコンテンツ否定派は気付くべきである。セックスに関する事象において女性は主導権を握れるような大した存在ではないという偏見を内在化しているから、エロコンテンツが女性の隷属のように見えてしまうのである。女性を擁護しているつもりで、自身の女性差別をはからずも露呈してしまっている論者は多い。

 不本意ながら身体を売らざるを得なくなったお金に困った女性がエロコンテンツの供給源であった時代はあったかもしれないが、現在エロコンテンツで活躍している人たちがAVやグラビア以外の場で語る内容を見れば、彼女たちがグラビアやAVの仕事を主体的・能動的に捉え、自分なりの工夫や努力をして成長し、それを商業的価値として認識できるレベルまで高めていることに誇りを持っていることがわかるだろう。エロコンテンツは、女性がその個性や才能をもって男性を魅了することができる業界なのである。彼女たちの表現の自由職業選択の自由を保護する視点が偽善フェミニストには欠落しているのである。

エロコンテンツにおいては、原則として登場人物は女性のみであり、男性が登場する場合もあるがあくまでも女性の魅力を鑑賞者が最適な形で受け取れるための道具として便宜的に登場するに過ぎないということを先ほど指摘したが、これは言い方を変えれば、エロコンテンツ産業は、適切な意思決定過程への関与や不当な契約の排除さえ確保できれば、圧倒的に女性が活躍するチャンスが多い産業ということでもある。単に自分がエロコンテンツが嫌いであるという情緒的な主観をさも一般的な問題提起であるかのように偽装している一部のエロコンテンツ否定派たちが、エロコンテンツで立身し生計を立てている誇り高きAV女優やグラビアアイドルの努力を矮小化し貶しめることを許してはならない。むしろ、女性が活躍できる場を増やすというフェミニスト視点からは、女性でなければ活躍できないエロコンテンツ産業を健全な業界として育てて保護していくことこそが正しい姿勢なのではないか。

  

  • 荒ぶる性欲をすべて女性本体が受け止めなくてもよくなったという視点

男性の性欲はなくせないし、なくすべきものでもない。なくしたら人類は絶滅する。したがって、性欲自体がダメという立場はとりようがないし、性欲は所与のものとして扱う以外にない。

そのうえで、エロコンテンツがない時代は、性欲は女性本人に直接ぶつけられてきた。50万年前にはAVも水着グラビアもなかったが、男性の性欲は当然あっただろう。男性の性欲が所与のものである以上、女性が全て受け止めるしかないではないかという認識が長い間存在していたものと考えられる。その一つの根拠となるものとして、夫婦間では性交渉を求める権利と応じる義務があるという法的な考え方がある。これは民法上で定義されているものではないが、性行為を合理的な理由なく拒否され続ければ離婚の事由となりうることは判例が示している。つまり日本の法的感覚においては、夫婦関係の持続において性行為は決定的な要素であるとの考えが許容されているということだが、これはこういうことでもある。つまり、「セックスしたいという欲望は無理もない!もちろん夫婦でもない相手とはできなくてもしょうがないな!でも夫婦ならセックスするのが当然だろう!だからセックスを求められたら基本断るなよ!」という考え方が背景にある。もちろん夫婦は人口の再生産のための枠組という側面があるので、単純に性欲の問題として論じることはできない。だがここであえて“性交渉要求権”に言及したのは、生物学的または社会的な子作りの必要性を抜きにしても、性欲は基本異性に向かわしめるものという認識が一般に許容されているということを示すためである。

 性交の性質上そのような認識が存在するのは当然であるが、エロコンテンツの登場により、それが必ずしも当然ではなくなっているという点をまず指摘したい。これまで問答無用で女性にその矛先を向けられていた性欲が、今や相当部分がエロコンテンツにぶつけられている。この事は、エロコンテンツがなかった時代と比べ、女性がひとりの人間として丁寧に見られやすくなり、ひとりの人格として尊重されやすくなる可能性を秘めているとは言えまいか。実際に現代社会がそうなっているかどうかの検証をするにはこの文章はすでに長くなり過ぎた。ただし、その可能性自体は確実に開けていることは間違いない。真のフェミニストであれば、女性の社会的地位向上を目指す戦いの長い歴史の中で、エロコンテンツの普及が前向きな意味でも革命的な出来事として位置付けられるべきであるとの認識を有しているはずである。

 

  • 第3節まとめ

 ・エロコンテンツ産業は女性こそが活躍できる場としての可能性を秘めている。

・エロコンテンツ普及以前には否応なしに女性本人にぶつけられていた男性の性欲をエロコンテンツが受け止めるようになり、女性が1人の人間・人格として認められやすい世の中になる可能性が開けてきている。

 情緒的にエロコンテンツに拒否感を覚える人がいるのはわかる。エロコンテンツ産業の一部において女性の人権侵害が行われていることも残念ながら事実である。だが、だからといってエロコンテンツそのものが女性を貶める存在そのものなのだと勘違いしては、その勘違いを隠れ蓑にしてほくそ笑みながら女性を食い物にして利益を得る真の黒幕の思うツボである。我々は、エロコンテンツに冷静な評価を与えることから始めようではないか。

 

おまけ

このブログは数人にしか読まれていないので問題はないとおもうが、今回はいつになく真面目なテイストで書いてしまったので、マジモンのフェミニストに見つかってボロクソに批判されちゃうかもしれないと思ってちょっとビビってる。そんなフェミニストの皆さんには僕のツイートをまず読んでもらいたい。そうすれば、相手をするだけ無駄なヤツだと気付いてもらえるだろう。