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Bustle Pannier Crinoline

バッスル・パニエ・クリノリン

「どうせ体が目当て」という男性批判をする女性への批判

これは、女性が「私の体が目当てだったのね!」というような言い方で男性を責めることを批判する文章である。

 

1.まず、誰かを好きだという感情の根拠に「体目的」と「体ではないもの目的」の分類を用いることが妥当であるという前提のもとで、「体目的の『好き』が体ではないもの目的の『好き』より劣る」という一般的な通念に疑問を唱えたい。

 

「体ではないもの」とは何か。この文脈で使われる言葉は「性格」「中身」「人柄」等である。また、一般的に「体」の対義語として使われるのは「心」「精神」である。これは、いずれも曖昧なものだ。たとえば、私は自分をズボラな人間だと思っているが、周囲は私を真面目な性格だと思っている。私は自分がいつも面倒くさいことをサボろうとするタイプだと知っているし、それを物語るエピソードをいくつも持っているが、私を好きになってくれるような人にそれを曝け出すようなマネはもちろんしない。したがって、「あなたの性格、中身、人柄を好きになりました」と言ってくれる女性が現れたとしたら、その女性は私に対して勝手に抱いた幻想に基づいて好きになっていることになる。「いや、自分でも気付いていない性格を他者が見抜いて好きになることもあるだろう」との反論もありえるが、いずれにせよ相手の好きの根拠である人柄と、私が一人称視点で認識している自分の人柄は一致していないという、ズレたスタートであることには変わりない。

また、性格や心は単に抽象的なだけでなく、日々移ろい変わっていくものだ。特に、精神活動の在り方というのは変わるのが当然であろう。40歳の男性が10歳の時と同じ精神活動をしていたら相当おかしな人という評判が立つはずだ。とある女性が、ある時の私の心の持ちようをもとに私を好きになってくれたとしても、私が翌日以降も同じ心の持ちようであると誰が言えるだろうか。

これだけ抽象的かつ一貫性のないものを根拠にして抱いた「好き」という感情であれば、簡単に「好きじゃない」に転化しうることは火を見るよりも明らかである。

一方、肉体はどうだろう。私の周囲の人物が認識する私の肉体と、私自身が認識する自身の肉体の間のズレは、人柄や精神といったものにおけるそれと比べ、はるかに小さいことは言うまでもない。たとえば、私はガリガリな体格だが、私のことをマッチョマンだと思っている友人は一人もいない。

また、時を経て変わってしまうという点は、肉体の方にこそ当てはまるようにも思えるが、逆に言えば、肉体が変わっていく過程は自己も他者も視認できるし、どのような変化を遂げていくかの予測可能性も肉体の方がはるかに高い。たとえば、かつての私を知っている人が「あいつは頑固者だ」と思っていたとしても、もしかしたら今の私は驚くほど柔軟な人間になっているかもしれないし、そうなるきっかけや度合は無数のパターンがありえるので予想不可能である。一方、私の顔にどのタイミングでどれくらいシワができるものなのか、お腹周りにどれくらい肉がついていくのか、一般的知識を使えばだいたいの予想はできる。

つまり、「体目当てであなたに近づいた男」は「体を根拠にあなたを好きになった男」なので、「あなたの中身を根拠にあなたを好きになった男」と比べて、はるかに確実にあなたが自覚するあなたの本質を理解し寄り添う男なのである。それにも拘わらず、体目当ての好きという感情をあたかも下品でケダモノ的で侮蔑的なものだと評価するのはきわめておかしい認識と言わざるをえない。

 

2.次に、そもそも「体目的」と「体ではないもの目的」という分類自体が適切なのかという点、そして、全ての「好き」は相手を構成する特定の要素に着目した「好き」であることには変わりないという点を論じたい。

 

上記1.では、この二元論に基づいて、どちらがより本質的か、どちらが優れているか、というような視点で論じたが、そもそも誰かを好きになるということは、「その人を構成する要素のうちどの部分に着目するか」の違いによって本質的かどうか、あるいは優れているかの度合が変わるようなものと考えるべきなのだろうか。たとえば、ライオンが好きな少年AとBがいたとして、A少年は「ライオンのタテガミとキバが好き!」と言い、B少年は「集団で狩りをするところが好き!」と言ったとしよう。その時、B少年がA少年に対し「君は見た目だけで好きになっているから、君のライオンを好きだという気持ちは僕の気持ちに比べればレベルが低い。タテガミもキバもないライオンにはそっぽを向くんだろ。そんなの本当のライオン好きとは言えない。」と言って、A少年が「君こそ、集団で狩りをすると言ったが、それは主にメスだ。オスライオンの性質を無視している君こそ、本物のライオン好きを名乗る資格はない。」と言い返したとしたらどうだろう。まともな大人であれば「A君もB君も、どっちもライオンを好きだという気持ちは本物だと思うよ!」と両者をなだめるであろう。ところが、恋愛の話になると途端に「目に見えないものが目に見えるものより価値がある」という尺度がまかり通るのは不思議である。

もし二元論を用いるとしたら、「その人を総体として好き」か「その人の特定の部分に着目して好き」のどちらか、という方がまだしっくりくる。この場合、体が好きというのも中身が好きというのも、両方とも後者のカテゴリーに含まれてしまうことになる。この二元論をぱっと見たとき、前者の方がより本質的でより深い「好き」であるような印象を受ける。しかし、真の意味で「その人を総体として好き」と言うには、その人を構成する全ての要素を網羅した上で好きになることが必要である。これは神とか仏とかの領域であり、現実問題として人間にはそのようなことはできない。なので厳密には、「その人の特定の部分に着目して好き」という後者のカテゴリーしかこの現実世界には存在しえないことになる。この事実が示唆することは、「体目当てだろうが中身目当てだろうが、所詮その人を構成する無数の要素のうちのごく一部しか見てないことには変わらないんだから、くだらねぇ事でガタガタぬかすな!」という事であろう。

一方、「その人を総体的に好き」というカテゴリーをより慣用的に、現実社会に即した形で柔軟に解釈してみると、「僕は君のことを、おっぱいが大きいとか、優しく接してくれるとか、そういう(見えるもの見えないもの問わず)個々の部品で好きになったのではなく、そういうものもろもろひっくるめて、ただただ君が好きなんだ」というタイプの好きという感情を指していると言う見方が可能である。「ただただ君が好き」と言われた女性と「君の肉体が好き」と言われた女性、どちらの方が嬉しく、どちらの方がより真実の気持ちだと感じるだろうか。もちろん前者である。男でも同じだろう。だがよく考えて欲しい。前者は、個別の部品への言及を省略した結果として、その好きという感情があらゆる分野を網羅していて普遍的な価値を持っているかのような印象を与えているに過ぎないのである。これは、風邪をひいたとき、微妙にいろんな症状が出ていたら「総合感冒薬」と銘打たれた「風邪の諸症状に効く」薬を飲むが、総合感冒薬は決して、のどの痛み専門の薬、鼻水専門の薬、咳専門の薬、発熱専門の薬などのあらゆる薬の良いところを全て凝縮した風邪薬界の王様というわけではないということにも似ているかもしれない。総合感冒薬的な「好き」が単に複数の部品に着目した好きの積み重ねに過ぎないのであれば、むしろどの部分に着目して好きになってくれたのかがはっきりわかる方が信頼性が高いだろう(のどが痛いならのどの痛み専門の薬を選んだ方がよいように)。「ただただ君が好き」という言葉から「総合的だ!一番ランクが高いやつだ!」という印象を受ける人は要注意である。「ただただ君が好き」は、「君の〇〇と〇〇と〇〇と〇〇・・・が好き」を省略した形でしかない。極論すれば、「ただただ君が好き」と「君の体が好き」と「君の中身が好き」は、本質において全て同じである。

 

3.最後に、「女の子が体目当ての男を批判する理由はね、好きの根拠がどうとかじゃなくって、性欲を満たす手段として女の子のカラダを消費してる、性的に搾取しているからなんだょ、だってそんなの真実の愛じゃないじゃん。。。」という反論がありえると思うので、この点も簡単に論じておく。

 

相手への尊重があった上で性欲を満たそうとしているのであればそれは女性の消費でも女性からの搾取でもないという点を認識すべきである。相手への尊重があれば、性欲が根源にあったとしても、それは女性から見て真実の愛と呼ぶことになんの不都合もない。性欲がある愛は真実の愛ではないなどと言う人はまずいないと言っていいだろう。自分の欲望を満たすことしか頭になく相手への尊重がない男に対しては「相手への尊重がないから駄目」と批判すべきなのであって、肉体に着眼していること自体を批判するのはお門違いなのである。

 

4.以上のことから、「どうせあたしの体が目当てなんでしょ!」とか「信じてたのに・・・あたしの体が目当てだったなんて!ひどい!」とか言うのは実におかしいということが明らかとなった。あなたの体はあなたを構成する最も大きな要素のひとつであり、あなたの体を目当てとした「好き」は、あなたのいろいろな要素に着目するいろいろな「好き」たちの中で、もっとも信頼できる部類の「好き」なのである。