Bustle Pannier Crinoline

バッスル・パニエ・クリノリン

ご無沙汰しています

訳あって、わいせっつーというツイッター・アカウントを消しました(だいぶ前の話ですが)。

 

仲良くしてくださっていた方々にも何も言わずに突然行方不明になりました。すみません。

 

続き物の漫画を描いていましたので、pixivで続きを描いていこうかと思います。とりあえずそれが言いたくてこの記事を書きました。小説「ゴンゲ」も途中なのでどうにかしないといけませんね。

 

気が向いたら普通の記事も今後は書くかもしれません。

ツイッターを料理にたとえると

ツイッターほど使う人によって使い方が異なるツールも珍しい。ツイッター観の違いについて、料理の比喩を思いついたので披露したい。

 

ツイートする行為を料理だとしよう。

そして、料理といっても、ツイッターの世界は料理や外食にかかる経済的コストはない世界だと思ってもらいたい。作る側としては、手間はかけてるけど、食材とか光熱費とかはタダ。で、食べる側としても、あらゆるレストランのあらゆる料理が無料。(ツイートしたり人のツイートを読むのが無料であることを意味する。)

 

ツイッターの世界にいる人の多くは、自分の料理をできるだけ多くの人に食べてもらって評価されたいと思っている。この人たちは、いわばレストランを営んでいて、口コミが爆発的に伝わったりして有名になりたい、そして事業を拡大したいと望んでいる。

 

でも、自分で作ったものを食べたり、友達とお互いに料理を作りあって美味しいねって言い合えればそれで満足、というかそのためにツイッターやってる、という人もいる。この場合はレストラン経営者ではないし、拡大の必要もない。

 

で、僕はというと、ツイッターを始めた時は「僕はメチャクチャ美味しい料理が作れるぞ!みんな僕の料理を食べたくてしかたないに違いない!いや〜参ったな、自分が好きで自炊してるだけなのに、自炊メシを分けてくださいっていう行列ができちゃうよ〜」と思っていた。

 

しばらくして僕は、自分の料理はツイッター世界において大して美味しいほうではないということ、そして別に僕の手料理を食べたい人なんてそんなにいないということ(味付けも全く万人向けではないし)を理解した。

 

今や、あくまでも自分用まかないとして毎日三食を作るただの“料理が趣味の人”になっているという感覚である。

 

ここで述べたいのは、前述のような変化はあるものの、僕は一貫して、レストランを営業しようとは思っていないということである。

 

料理を褒められたいという気持ちがメチャクチャ強かったのにみんなからそっぽを向かれていたあの頃も、自炊しているだけなのにたまに炊き出しのように行列ができることのある今も、「これは自分が食べる用のご飯だ」という感覚が変わったことはない。したがって、今世間でこの料理がブームだから客引きのためにその料理を作ろうとか、自分自身としては好きな味じゃなくても世の中にできるだけウケる味にしようとか、そういう事を思ったことはない。だから、たまにゲテモノ料理やマイナー食材を使った料理を作って周りから眉をひそめられる中で一人で舌鼓を打っていることも多い。

 

僕は自分のゴハンが好きだけど、もちろん他の人が作ったメシもよく食べに行く。行く店はいつもだいたい決まっている。こんな凄い料理僕には作れない!って感動しながら食ってる。もし実際の料理人だったら、自分の店に食べにきて欲しいがために(いわば恩を売るために)大して好きでもない店に足を運んでお世辞を言う人は普通いないだろう。でも、ツイッター世界にはそういう料理人も残念ながらいる。

 

お客さんがほめてくれなかったから失敗作だと言って自分が美味しいと思って作った料理をゴミ箱に捨てたり、自分の信念はそっちのけで食べログの星ばかり気にするような料理人もいるらしい。それは現実のレストラン経営者であれば生活がかかっているぶん理解できるのだが、ツイッター世界では外食は無料なので、僕としては理解に苦しむところではある。でもまあ好きにやればいい。僕だって自炊料理人とはいえ人から料理哲学についてあれこれ言われたくないし。

 

とにかく僕にとってのツイッターは、あくまでも自炊して(自分が読むためにツイートして)たまに外食して(他の人のツイート読んで)という生活の中で、ふと気づくと僕の鍋から自由によそって食べてる人がいて「あ、自分用に作ったやつけど、それを食べたいという人がいるのは素直に嬉しいし、褒められたら悪い気しないね」というだけのことなのである。

 

たまにメチャクチャ人に食べてもらいたくなる日もあるけどね。

 

 

 

 

 

本物対談 虫野カナさんと

 


「えっ、本物の対談!?」

無理もない。これまでAV女優の姫川ゆうな、そして歌手の福本まなかLittle Glee Monster)と架空の対談をしてきたわいせっつー(職業:ドスケベ中年ツイッタラー)に、まさか本物の対談をしたいというオファーが来るとは、誰が思っただろう。

 


わいせっつーと対談をしようというその物好きの名前は、虫野カナ氏(男性)である。虫野氏はツイッターでわいせっつーと相互フォローの関係にあり、「チンポ!!!!!!!!!!!!!」と圧倒的な数の感嘆符で男性器の名を叫び、その後すぐに熱いメッセージをツイートするスタイルでチンポ業界では以前から知られており、近年はそのスタイルを模倣する者も増えている。

 


「『妄想』というテーマで対談したい」という素敵なオファーに浮かれるわいせっつーだったが、我々スタッフはひとつ気になることを聞いた。「今までの妄想対談はホテルの一室だったけど、虫野さんからはラブホテルでの対談を指定された。」対談をするのになぜラブホにする必要があるのか我々は全く分からなかったが、わいせっつーは「性欲に関係あることしか呟かない僕との対談としてこれ以上ないロケーション」と納得していた……。

 


本物の対談を、とくとご覧あれ。


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虫野カナ(以下、虫野)「本日はよろしくお願いします。」

 


わいせっつー(以下、わいせ)「こちらこそ宜しくお願いします!今日は虫野さんとじっくり対談できるということで楽しみにしてきました!」

 


虫野「僕も楽しみにしてましたよ。でもやっぱりいざ対談するってなるとビビりますね。」

 


わいせ「リラックスしていきましょう。このラブホの一室には他に誰もいませんから是非フランクにお話いたしましょう。

 今日のテーマは妄想ということですけども、虫野さんは子供の頃から妄想しがちな子供だったりしましたか?」

 


虫野「そうですね、僕は子供の頃から妄想はしてましたね。これは別にエロい事だけじゃなくしてました。妄想してたっていうか妄想をせざるを得なかったですね。」

 


わいせ「妄想せざるを得ない……って、それは現実があまりに厳しすぎたから逃避が必要だったということですか…?」

 


虫野「いやそこまででは(笑)。

 実は僕には野球部の兄がいたんですがそうすると野球部なんてどうしても毎週末は練習試合であっちゃこっちゃ行くワケです。父兄もそれについてって応援なんかしたりして。その頃はまだ僕が小学校入りたてくらいなので家に置いてくワケにもいかない、という事で一緒に連れてかれるんですがこれがつらかった。知らない場所に連れてこられても実際やる事ないんですよ、大人はみんな練習試合みてるから相手してくれないし。僕は別に野球観るの好きじゃないし。校庭の遊具も一日中遊べるほど楽しくもないじゃないですか(笑)

だからこう『早く家帰りたい…家に帰ったらあんな事して…』みたいなのが妄想のスタートでしたね。」

 


わいせ「よかった!しょっぱなから『過酷な幼少期を送りました』的な激重トークから入るのかと…それでも別にいいですが、むしろ仲の良い家族の話で安心しました。」

 


虫野「仲良いですかね(笑)。劇重トークもたぶん探せばあると思いますけど別に意外に僕って普通なんでね。」

 


わいせ「たしかに妄想するクセというのは幼少期の1人遊びと密接な関係があると言えそうですね。」

 


虫野「そうですね、それはあると思います。

一人遊びする子の方が絶対に妄想する力はありますね。

 普通に友達がいれば考える必要もないけど一人遊びだとまず友達を頭の中で作る作業から始めなきゃいけないし、そこからもう発想力に差が出てくるんじゃないですかね。」

 


わいせ「今の、妄想力と発想力をリンクする御発言に注目したいと思うんですけど、妄想って『妄』という字からしてもそうですが、もともと良い意味ではないですよね。『そんなのはお前の妄想に過ぎない』とか言ったりするし。でも、現実の役に立たないとされがちな妄想が実は発想力という実生活で価値を持つ能力に繋がるのではないかっていうのは、かなり重要な指摘だと思います。」

 


虫野「そもそもデタラメですからね。自分の願望をかなり甘く主観的に思い描いてるだけなので客観視すると欲球丸出しで鼻につくんでしょう。

 でも妄想出来ないと自分の深層心理でどんな事を望んでるのかわからないと思うんです。

妄想が出来るということは自身が満足出来る内容のアイデアを発想出来ることなんじゃないかと。」

 


わいせ「なるほど、妄想は身勝手だから現実逃避だとされて否定的に見られているんでしょうね。今伺って思ったんですが、誤謬を恐れずに言えば『妄想』と『発想』の間にあるのが『空想』なんじゃないでしょうか。で、空想は身勝手な妄想みたいな側面と、新しいものを創り出す力となる発想の側面を併せ持つと思うんです。『あいつは空想癖がある』といえば『妄想癖』と同じくらい否定的な言葉ですが、『イマジネーション豊かな』みたいに言えば『空想』は良いことみたいに聞こえますよね。だから、『妄想』は『空想』を経て創造性に辿り着けるという意味で重要な価値を持っているということかなと思いました。」

 


虫野「いやいや全然誤謬とかでは無いですよ。喋りながら気づく事もありますし。

 妄想と空想は絶対に切り離す事は出来ないですね。というのも空想に関して言えば割と起こりうる現実に沿う、というのがスタートで発想してるんですがそれに対して妄想は基本的には現実へのアンチですからね。これがしたいけど普通は出来ない、みたいな、でも妄想の中ではやれるんで。

 エロい事で例えると"ふたなりのチンコ"とかはそうですよね。実際女の子にどうやったってチンコは生えないけど妄想の中では作れるので。これは空想の時点では辿り付けないステージと思います。

 でも一度現実では出来ないっていうのを経てからではないと起こらない現実は解らないんで。漫才のボケとかも常識を知ってないと非常識な事言えないみたいな感じ。

 たしかにこの時点で妄想は創造性の高さで価値がありますね。」

 


わいせ「なるほど!先程出た深層心理の話と漫才のボケの例えは、両方とも『現実という壁』とどのように向き合うかという視点があると思いました。

 深層心理の話は、妄想とは現実に沿わないデタラメだけど、デタラメだからこそ現実の縛りに囚われずに本当に自分が心の底から何を望んでいるかを可視化することができるということですよね。

 ボケの話は、きちんと現実という壁を理解できているからこそその壁を超えることができるということかなと思います。現実に沿うにしても、現実を飛び越えていくにしても、どちらにしても現実を現実として理解し踏まえているという意味では同じですものね。

 ただのデタラメではなく現実という壁を乗り越えていく力強い手段だからこそ、妄想に価値が見出しうるのだというお話だと理解しました。」

 


虫野「まったくその通りです。

 ね、ここまで話して妄想ってものの見方が、これ記事になるので、見てる人は変わってきたんじゃないかと思うんですけど、ここで急にイヤラシイ方の話題に転んでもいいですかね?」

 


わいせ「唐突ですね!いやらしい話は大歓迎です!お願いします!」

 


虫野「あのー、というのもこれで妄想っていうものの価値がハッキリしたんですけど、わいせっつーさんのなかでエロに関して妄想ってのはどういう位置付けですかね?性欲ってある程度の創意工夫があるとは思うんですが…」

 


わいせ「きわめて重要な位置づけですね。

 かつては僕にも、現実に目の前に見えているパンチラとか今実際にやっているセックスとか、そういうリアルなエロが本来のゴールで、それが手に入らない場合に代替品として止むを得ず妄想で補うという構造で理解していた時期もありました。

 でも、物理的存在としてはパンツはただの布でありおっぱいは単なる脂肪塊ですから、結局エロスというのはいかにそこに主観的な意味を見出すかなのだと今ではわかります。そうであるならば、究極的にはエロスというのはいかにイマジネーションを働かせるかに真髄がある、いわば妄想のアートであると考えています。」

 


虫野「おー凄いですね、今の言葉、教科書があったら載せたいですよ。まぁ何の教科書かは解らないですけど(笑)

 これ『缶コーヒーはコーヒーと認めない!』みたいに怒鳴る人と一緒で本来全然別物って事がわかってないだけなんですよね。

 そもそも妄想におけるエロスと実在のエロスってまったく違うんですよ。

 同じ飲み物ではあるけど、だからこっちが本物でこっちは偽物ってないんですよね、好みはあるけど。がぶ飲みコーヒー飲んでて『それは本物のコーヒーじゃない!』って言われてもえぇ…知らんよって感じじゃないですか。

 物理的な刺激とか視覚やあとは音のリアルに存在するエロか、妄想の中のイマジネーションで培われたファンタジー性のあるエロかってとこですかねぇ?

 これセックスとオナニーの違いみたいなのにも言えるんですけどね。どっちが上ってないし。」

 


わいせ「ちなみに僕は『通がコーヒーと認めない系のコーヒー』結構好きです。種類別の欄がコーヒーではなく乳製品ってなってるやつですね!脱線してすみません。

『オナニーはセックスの代替物なのか』という命題は、ブログでテーマだけ提起したまま記事は書けてないですが、少なくとも現代においてはオナニーはセックスの代替物ではないという結論に至ることは間違いなくて、この点は虫野さんと意見が一致していると確信しています。

 一方で、『オナニー対セックスの対比』と『妄想・ファンタジー系エロス対現実・実体験系エロスの対比』は、似てはいるものの、必ずしも同一ではないと思いますね。オナニーの中にも、物理刺激で射精することを重視するスタイルと、妄想の中で異性と架空の親密性を獲得することを重視するスタイルがあります。また、セックスの方でも、妄想まではいかずとも目の前にある肉体ではなくそこを窓口として辿り着くファンタジーを興奮の淵源とするパターンがありえますからね。」

 


虫野「へー、オナニーとセックスの違いについてはまた別の問題って事ですね。たしかにアプローチの仕方の違いだけでオナニーもセックスも重要だと思う点の違いという。

 これまた僕の恥を晒すんですけどセックスの中のファンタジーって実体験した事無いんでわからないんですよね。ソープでしかセックスした事ないので。」

 


わいせ「僕もオナニーが主なので、いわゆる『チンコが乾く暇がない』というヤリチンたちのセックス観ってどうなっているんだろうなっていう興味はあります。オナニーではなくセックスが射精活動の中心となるような人にとってファンタジーとか妄想とかってどれくらい重要な要素なのかなっていう…」

 


虫野「いやぁ『チンコ乾く~』とか言っちゃう人は多分そこまで感情移入は必要としてないんじゃないですかね?

 考えてたとしてもいっぱいセックスしてる自分に満足感を得てるのかと。

 ね、なんかセックス出来ない奴の負け惜しみみたいでしょ(笑)」

 


わいせ「負け惜しみとは全く思わないですけど、セックスの機会に恵まれないことと、射精に至る過程にファンタジーとかイマジネーションとかを重視する傾向があることって、関連があるような気がしてしまいますね、直感的には。

 狭い空間を大人数で共有しなければならないとか頑丈なものが作れないという日本の文明上の制限が、静かに扉を閉めるとか道具を丁寧に扱うという優美で繊細な所作文化に繋がっているといわれますが、制限された状況が逆にプラスの価値を生む土壌になるということはありますものね。」

 


虫野「確かに。日本も物資が他国に比べては劣ると言わざるを得ないですが、その分技術が物凄い発展していますもんね。

 これちょっとセックスとオナニーにも似てますね。どっちもなきゃダメだしどっちが上ってないし。」

 


わいせ「そうすると、例えばですけど、基本的には誰もがセックスにわりと普通にありつける社会で、かつそれゆえにオナニー文化が成熟しない社会があったとすると、そこでは妄想やイマジネーションの文化があまり花開かないという仮説が成り立ちますよね。

 そんな社会は一見実在しなさそうにも思えますが、“近代化”する前の日本は、自由恋愛がなかった一方で夜這い文化ってのがあったので実は年頃の男女はブサイクでも貧乏でも結構みんなセックスできてたんじゃないかと思います。」

 


虫野「話がそれますけども昔は割と簡単に出来てたみたいですよ。ソースは忘れましたが盆踊りはそもそも男女の出会いの場でそこで気があったら近くの林かなんかに隠れて性行為してたという。

 セックスに至るまでのアイディア、というか創意工夫は見られても爆発的な発想力とかは少ないのかも。」

 


わいせ「盆踊りの話、納得です!たしかにキリスト教文化圏から貞操観念が持ち込まれるまでは日本は基本誰とでもセックスする文化ですものね!

 妄想とは現実のアンチであるという話がさっきありましたが、エロい妄想と現実の距離感ってどう捉えてらっしゃいますか?まったく荒唐無稽な妄想だからこそ良いという人もいるかもしれないし、現実的な妄想の中に一抹の非現実をちらりと忍ばせてこそ良いという人もいるかもしれないですけど、虫野さんはどっちでしょう?どちらもファンタジーではあると思うのですが。」

 


虫野「うーん…ある程度のラインまでは現実的ですが唐突に非現実を入れますね。AVのストーリーみたいなのを思い浮かべて貰えばいいですね、アレの話の流れをより明確にしてますね。

 現実ではこっちの道に進むけどより良い理想の方に転ぶようにしてます。

せっかく思想・良心の自由で頭の中だけは何考えてもオッケーと言われててるので妄想くらいは何やっても基本的にはいいだろう、という。

 発想が雑にならないようには気をつけてますけど。」

 


わいせ「なるほど、では基本設定自体は比較的現実的にしつつ、ストーリー展開を御都合主義にするという感じですね!とてもよくわかります。僕も基本同じです!

 ただ、いつも御都合主義の度合いが難しいんです。都合が良すぎるとリアリティが足りなくて喜びが少ないというか興ざめしちゃうんで、わりとリアルにありえそうな範囲で都合のいい展開を狙うんですが、その結果として、妄想なのに全然オイシイ思いができなかったりして、なんのための妄想か?!ってなっちゃうこともあります。」

 


虫野「すっごいわかりますね。

 どう感情移入するかで変わってくるんですが、これってどうやってもあんま上手くいかないですよね。

 開き直ってぶっ飛んだ事考えたりしても全然沸点というのを感じないしカラッカラですよ。(笑)

 まぁでもあんまり妄想に入れ込むと妄想が現実みたいになりますからね。それってかなり危険だし防衛本能で割と深い妄想ってのは出来なくなってるのかも」

 


わいせ「そうなんですね!では、実感としては似ているような気がします。

 妄想に入り込みすぎないように安全装置があるってのも、なんかわかります!よく言われる、鏡に向かって『お前は誰だ』って毎日言い続けると気が狂うっていうやつみたいに、現実と虚構の隙間を探るとろくなことがないみたいなやつと似てますよね。現実生活を維持するために妄想は儚くできているのかも。」

 


虫野「妄想と理解出来てるからこそ甘くて楽しい気持ちになれるんでしょうね。現実のアンチだからこそ現実は常について回るというか。

 妄想は現実に対する休憩所みたいな位置付けなのかも。現実だけずっと走ってたら疲れちゃうけど妄想に浸かっても堕落してしまうし。

つらいことが重なる現実と甘い思いに身を馳せる妄想を行ったり来たりするしかないんですかね、結局。」

 


わいせ「いきなり突拍子も無いたとえをだしますが、仏教の経典のストーリーは、山でブッダが教えを説くセクションがまずあって、その後ブッダも聴衆も全員空中に浮かんでそのまま演説が続いて、最後にまた山で喋って終わりという構造になっています。空中に浮かんでるシーンは現実離れした理想的な世界の比喩で、地上のシーンは地に足のついた現実社会生活の比喩だそうです。現実を超越する夢とか妄想の力は、現実的な平凡な暮らしに挟まれているということだと思います。むしろそれがトータルとして理想的なんだと思います。」

 


虫野「たしかに。

 どうやったって切っても切れない関係なんですね。たまに妄想を現実にしてる人がいるけど大概は狂ってるって言われちゃうし。」

 


わいせ「それでは少しまとめさせてもらいますと、妄想とは現実という壁を超えて人間の可能性を開いていく原動力であり、現実における渇望が強いほど妄想の持つ豊かなイマジネーションが花開くといえるけども、一方で妄想は現実から乖離すればするほどいいわけではなくてむしろ現実と隣り合わせになってこそ本来の力を発揮するということのようですね。

 ますます複雑化する社会の中で僕らが力強く生きていくためには、その厳しい世の中から飛び去って逃避行動するために妄想するのではなく、その厳しさの中に妄想の花を咲かせることで現実社会を力強く乗り越えていくことが求められているのかもしれませんね。」

 


虫野「そんな感じですかね。暮らしの中に一つまみのスパイスで。妄想は使用上の注意をよく読み容量、用法を守って正しく使いましょう(笑)」

 


わいせ「さて、もっとお話ししていたいのですが、これ以上この部屋にいると『ご休憩』ではなく『ご宿泊』扱いになってしまうので、そろそろお開きにいたしましょうか。」

 


虫野「そうですね。

 まぁでも僕的には宿泊になっても良いですよ……?(わいせっつー氏の太ももをさする)」

 


わいせ「えっ…ちょ……待っ……」

 

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ここでICレコーダーの録音は止まっている。

 


わいせっつーは我々スタッフに事の顛末を語ろうとしない。我々としても聞く気が起きない。真相は闇の中なのである。

 


ともあれ、非常に充実した対談が実現したことは確かである。我々Bustle Pannier Crinolineのスタッフとしても、対談のオファーをくださり、また対談記録を当ブログのコンテンツとして発表することに同意してくださった虫野氏に、この場で改めて顔射、じゃなかった、感謝申し上げたい。

わいせvsまなか 3

絶対に交わらない水と油だったはずの、親子ほど歳の離れた2人の間で、思いのほか話が盛り上がっていく様子を、スタッフは不思議な感覚で見ていた……いい歳して性欲関連限定でツイートするみっともないおじさんことわいせっつー氏と、若くして貫禄のある歌声を持つ天才こと福本まなか嬢(Little Glee Minster)の対談の第3回です。※この対談はフィクションです。

 

第2回から続く)

わいせっつー(以下、わいせ)「何を表現するかとか、表現の仕方をどうするか、という問題のいずれにも関連すると思うのですが、“ポップ”というあり方についてお聞きしたいと思ってまして…」

 

福本まなか(以下、まなか)「ポップ…っていわゆるポップスってことですかね?」

 

わいせ「音楽に限らず『ポップであることの価値』についてご意見伺えればと思いまして。さっきの『売れることが大事か』という点と非常に似てるテーマですが、さっきの話は、より多くの人に届けられるとか、より良い作品作りの素地を作れるといった具体的な結果としてのメリットの話になりましたので、むしろポップな表現そのものの価値についてお話をお聞きしたいんです。」

 

まなか「うーん、そうなると、そもそもポップな表現ってナニ?って話になるかと思いますね……」

 

わいせ「ポップというのは大衆的ということですから、幅広い層に愛されるということだと思います。」

 

まなか「そうなると、売れるってことと、ポップであることって、どう違うんでしょうか?」

 

わいせ「例えば、『今夜はブギーバック』なんかは、さほどお茶の間にヒップホップが普及していない時代にそれなりのヒットとなりましたよね。この曲も1つのきっかけとなって、ヒップホップ自体がポップな存在になっていったわけですが、『今夜はブギーバック』単体で見た場合には、世に出たときは『売れた曲』だけど『ポップな曲』ではなかったといえると思います。」

 

まなか「これぞ王道!みたいな表現の仕方じゃなくても、作品に力があれば、その魅力で幅広い層にウケて売れるし、それが後から『あれはポップだ』って言われるっていうことでしょうか…」

 

わいせ「今、王道という言葉をお使いになりましたが、まさにそこが売れる表現とポップな表現の違いなんじゃないですかね。ポップであることの意味は、先程は大衆的と言いましたが、言葉を変えれば王道であるということなのではないでしょうか。」

 

まなか「でも今のところ、この話って手法の話にしかなってませんよね?さっき、なにを表現するかという点と、どう表現するかという点の2つを挙げていたと思うんですけど、手法であれば、王道の手法とか、ちょっとひねった珍しい手法とかの種類があるっていうのはよくわかるんです。でも、何を表現するかという話をすると、これは王道とかポップとかってあるんですかね…?」

 

わいせ「大変重要な御指摘をいただきました。王道の表現手法はあるだろうけど、王道の表現内容はあるのかという問いですね。」

 

まなか「よくあるテーマってのはあると思いますよ。それこそ、愛とか。あとは喜び・悲しみみたいな感情、王道やと思います。でも、この作品は愛を扱っているからポップな作品だ!とかあんまり思わない気がします。」

 

わいせ「たしかに、愛みたいな普遍的なテーマを扱っていても、作品によってこれはすごくポップだなとか、こっちはマニアックだなとか思いますもんね。そうすると、ポップかどうかというのは内容よりも表現手法によって決まるといえそうですね!」

 

まなか「私はポップな表現手法というのは、お店で言えば、誰もが入りやすい雰囲気とか店構えみたいなものじゃないかなと思います。」

 

わいせ「なるほど!そのお店の商品が優れたものかどうかは人の好き嫌い次第ですが、それとは違う次元で、性別や世代に関係なく入りやすい店かどうかについては確かにある程度客観的な指標がありますもんね!」

 

まなか「店の雰囲気はいいし店員さんもめっちゃ親切やけど売っているものがイマイチってことはありうるので、ポップであること自体にすごく価値があるわけではないと思います。」

 

わいせ「リトグリさんの代表曲のひとつに『好きだ。』という曲がありますよね。あの曲は直感的にはポップだと感じます。頭で考えてみても、明るい曲調と和音展開、恋愛感情をストレートに歌う誰もが共感しやすい歌詞、今生きている日本人の世代が幅広く慣れ親しんでいる『Aメロ・Bメロ・サビ・Aメロ・Bメロ・サビ・Cメロ・サビ』の構成、どこをとっても完璧なほどにポップですよね。」

 

まなか「そうですね!そうだと思います。ポップやなと思うのと同時にリトグリらしい曲やなとも思うんで、リトグリは王道のポップスが似合っているのかも?」

 

わいせ「これは完全に良い意味で申し上げるので是非不快に感じないでいただきたいのですが、まなかさんの声質自体は正直ポップという印象はないです。」

 

まなか「そうですか?」

 

わいせ「太くて深みのある得難い声をお持ちでらっしゃいますね。まるで香味溢れる焙煎珈琲のアロマのような……」

 

まなか「コーヒーとか初めて言われましたね。ありがとうございます。」

 

わいせ「小さい頃にプロ歌手の歌マネとかされてたと思うんですけど、Misiaとか絢香とかそういうディーバ系でしたよね。でも今や、ただ豊かな声量豊かにカッコよく歌い上げるばかりでなく、可愛げや憂いや静けさなども感じさせるような豊かな表現力も発揮されてますよね。」

 

まなか「そうなれてればいいなと思います。声が太いのはよく褒めてもらえますね。」

 

わいせ「弦のような豊かで幅のある声なのにスモーキーに感じるってスゴイですよ。渋い声質でポップな楽曲をやるってのが面白いんじゃないかなと思いますね。ポップと非ポップのいいとこ取りみたいな。」

 

まなか「いいとこ取りってすごく大事やと思いますね。さっきのモノマネの話もある意味そうですけど、今の時代、音楽ってホントにいろいろなので、いろんな時代のいろんな分野からいいとこ取りして、一番私たちの良さが出る形に持っていけたらええなって思いますね。それで、それが今の時代にもバッチリはまれば完璧っていうことかなと思います。」

 

わいせ「ポップも時代や場所によって変わりますもんね。だからこそいろんな王道のいいとこ取りができる。」

 

まなか「さっき、ポップっていうのはやり方であって中身ではないみたいな感じの話になったと思うんですけど、わいせさんがツイッターを使ってやってることって、ポップなことなんでしょうか?」

 

わいせ「ポップとは手法の問題であるという考え方が正しければ、個々のツイートの中身よりもツイッターというプラットフォーム自体の方がポップさを測る基準になると言えると思うんですが、僕の意見ではツイッターって『十分にポップではない』ですね。」

 

まなか「少し意外ですね。若者を中心に幅広く使われていて、大衆的というのには十分かなと思うんですけど。」

 

わいせ「ツイッターがポップな存在になりきれないのは刹那的過ぎるからだと思います。前回の対談でも触れましたが、ツイッター諸行無常過ぎるんですよ。」

 

まなか「ツイートしてもすぐ流れてしまうということですか?」

 

わいせ「そうです。ツイッターって拡散力はすごいので、ブームが起きたらブワーッて怖いくらいに拡がるんですけど、すぐ忘れ去られるんですよね。ホットな話題の寿命が短いです。ツイートがすぐ流れることの結果として、ツイッターで起きるブーム自体も短命になってるんですね。」

 

まなか「たしかにツイッターやってるとそれは感じますね。でも、サイクルが早いとポップではないっていうのはどういうことでしょうか?」

 

わいせ「大衆性って、ある程度の安定感が必須の要素だと思うんです。すごく人気があってもまだ流行るかわからない、普及するかわからないものはポップとまで言えないと思います。今夜はブギーバックの時点では手法としてのヒップホップがポップでなかったように。テレビとか新聞はいろんな意味で確立してるので大衆のメディアだと思いますし、今やインターネットのニュースなんかもそうだと思います。かつてはユーチューブを発信型メディアとして使うことはマイナーなことだったし確立するかどうかも怪しかったから、一般市民がいきなりマス向けの発信者になれるという意味では大衆的ではあるんですけど、普及してないときはポップな手法じゃなかったと思います。それが、今はユーチューブで発信すること、ユーチュービングとでも言うんでしょうか、それはもう手法としてもポップと言っていいと思います。同時に思うのは、ツイッターは現時点でそこまで行ってないなということですね。」

 

まなか「なるほど、ではわいせさんのやっていらっしゃることはポップのうちには入らないってことですか。」

 

わいせ「僕のツイートって要するに冗談を言うっていう行為なんですけど、それこそ人類が長い歴史の中でずっとやってきた普遍的なことで、なんら珍しいことではないですよね。だから冗談を言うという行為に着眼すればポップに思えます。まして性欲ネタなんてどの国にもどの時代にもあったと思うんでこんなに大衆的なものはない。でもそれをやるプラットフォームが『十分にポップではない』ツイッターという対比があると思います。」

 

まなか「でもわいせさんみたいにエロいこと”だけ”に絞って冗談言い続けるって、そんな世界各地でいつの時代でも行われてたってことはないと思いますけどね。」

 

わいせ「たしかに度合の問題でいえばそうですね。でも思ったんですけど、僕の性的な冗談ってツイッター以外のプラットフォームではなかなか映えにくいと思います。たとえばテレビとかそういういわゆる王道・ポップなメディアでやったら、今よりずっとつまらないか、もしくは変な空気になると思います。」

 

まなか「それはエロネタやからテレビで流せないっていうことじゃないんですか?」

 

わいせ「いや、そういう基準でのNGではなく、テレビ文化との相性ですね。伝達する媒体がポップであればあるほど普通は幅広く普遍的に伝播していくと思うんですけど、ツイッター向けにチューニングされた冗談って、ツイッターとか雑誌の読者コーナーとかそういうポップではないメディアでやることにより、逆に一番伝播していくという感覚がありますね。逆説的で面白いと思います。」

 

まなか「それって歌に置き換えると、日常に根差したような歌を歌う行為ってかなりポップやと思います。内容だけでなく手段としてもポップってことですね。で、リトグリという存在を一番魅力的にわかりやすく伝える方法がまさにポップソングを歌うっていう手段なんかなって思います。もちろんポップソングでない曲を歌うことで私達の新しい魅力を発見してもらうこともあるし、自分たちもそういうことに挑戦していきたいという思いはありますけど。」

 

わいせ「そういう形で発見されたり訓練によって生み出されたりするリトグリの大衆的ではない魅力さえ、ポップソングを歌うという『手段としてのポップ』を通じてこそ最も幅広く愛されると思いますし、その構図全体がリトグリという存在をポップたらしめているという感じがしますね。」

 

まなか「そう考えると、わいせさんと私たちリトグリは、どちらもポップなところがあるけれど、その種類が違うという感じがしますね。」

 

わいせ「そうですね。ポップでない手段で逆に潜んでいたポップさが最も良く鑑賞される僕と、ポップな手段を通じてこそポップでない側面が最も良く鑑賞されるリトグリという対比を考えると、まさに僕たちは対照的なのかもしれないですね。そろそろお時間なのですが、ちょうどいい感じにまとまりましたね。」

 

まなか「今日はありがとうございました。私もポップってことについていろいろ考えるきっかけになりました。」

 

わいせ「こちらこそお忙しい中こんなややこしい対談にお付き合いくださりありがとうございます!メンバーの皆さんには僕が紳士だったと是非伝えてください。」

 

まなか「いやぁ、信じてもらえないんじゃないですかね。名前がわいせつやし。」

 

わいせ「ポップじゃないですか!」

 

まなか「どこが!」

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わいせvsまなか その2

会社ではゴミクズのような存在なるもひとたびツイッターで性欲関連のツイートを紡ぎ始めれば急にギラギラと輝き出すわいせっつー氏。幼くして天性のセンスと歌声で世の中を圧倒し続け今や大人への脱皮の過程でさらに高次元に昇ろうとしているLittle Glee Monstermanakaこと福本まなか。決して出会うはずのない、出会ってはいけない2人が、3月都内某所で対談した。(※この対談はフィクションです。)

 

第1回から続く)

わいせっつー(以下わいせ)「僕は基本的にエロいことばかり考えてますよ。でも、それって女の子とイチャイチャしたいとかナンパしてやろうとかを常に考えているわけではなく、内より湧き出る性欲を常に見つめているという事なんです。」

 

福本まなか(以下まなか)「自分の中から湧いてくるものを自分で見つめるのって難しそうですね。」

 

わいせ「まなかさんは芸術家なので内から湧き出るものに突き動かされて活動されているものと想像しますが、他者からの評価ってどのようにお考えですか?」

 

まなか「他者からの評価って、ファンの皆さんからの意見とかですか?それともボイストレーニングの先生の意見とか?」

 

わいせ「つまりですね、まなかさんのように表現を生業にされている方は、周りがなんと言おうと私が良いと思う方向に歩いていく…!というのが理想的なわけですよね。でもプロとしてやっていくため、例えば『こういう路線で売っていった方が人気が出る』『こういう曲の方が売れる」みたいなことを考慮することもありえると思うんです。」

 

まなか「あー…つまり、周りから評価されて“売れる”こと自体が大事かというような話ですかね?」

 

わいせ「仰る通りです。」

 

まなか「私は両方やらないとダメなんじゃないかなって思ってて。両方っていうのは、自分の歌を貫くということ、その上で、やはり売れることを目指すべきだと思ってます。」

 

わいせ「世の中には、とても優れたアーティストが、世間に知られないまま、商業主義に染まらずに世界観を保っていたりしますよね。売れると『マイナーな頃は良かったのに』と批判されたり……。それでもやはり、まなかさんとしては、売れないとダメだろうということなんですね?」

 

まなか「まず、売れてないミュージシャン=ダメと言ってるのではなくて。尊敬すべきアーティストは売れている人の中にも売れてない人の中にもたくさんいます。私が言っているのは自分自身の姿勢のことですね。自分には『もっと売れる』というテーマを課していますよ。」

 

わいせ「その理由で一番強いのってなんですか?」

 

まなか「売れたからこそ、今までよりも多くの人に歌を届けることができると思っているからです。売れたからこそ、良い機材でレコーディングさせてもらえて、大きいレーベルで発売させてもらえて、宣伝もしてもらって、テレビやラジオにも出させてもらって、より大きなキャパの会場でライブができる…」

 

わいせ「独りよがりで音楽やって誰にも聞いてもらえないまま死んでいったら、勿体ないですもんね。」

 

まなか「そういうふうに『売れなくてもいい、コレが私の音楽やから!』って閉じこもっていくのも1つのやり方とは思いますが、わたしたちは多くの人の心に爪痕を残したいと思って歌をやってるんで、そういう態度を取ることはありえないんです。でも、自分たちの音楽を忘れて売れ線ばかり考えた結果として売れたとしても、それは私たちの本当の姿ではないから、それは意味がないと感じるんじゃないかなと思います。」

 

わいせ「非常に示唆に富んだお話をお伺いしました。なぜこんな事を伺ったかというと……いや、これ並列に語ることすら大変失礼にあたるかもしれないんですけど、ツイッターやってると『人気って何?ツイートが評価されるって何?いいねって何?』という問いに直面しがちなんですよね。すみません、ホント全然次元がちがう話で!僕は仕事でツイッターやってるわけではないので、同列にしてしまったことを謝ります。」

 

まなか「わかりますよ。今はリトグリみんなのアカウントになってますけど私もツイッターやってたし、個人ではインスタもやってるんで。」

 

わいせ「正直に言うと、僕はツイッター始めた時は『フォロワーたくさん増えてほしい、人気出てほしい、できれば有名なアカウントになりたい』って結構本気で思ってたんです。今思えば実に恥ずかしい話です。」

 

まなか「いえ、全然恥ずかしくはないでしょう。誰しもそれはあるんじゃないでしょうか。」

 

わいせ「ツイートを一生懸命考えて、自分なりに工夫に富んだと思えるようなことを呟いているのに、全然『いいね』が増えなくて、正直最初の一年か一年半くらいはストレスでした…」

 

まなか「誰かに強制されてやってるわけではないんでしょうし、ストレスに感じるくらいならやめてもよかったんじゃないですか?」

 

わいせ「冗談を言うこと自体は楽しかったんですよ。で、ある日、僕の冗談が珍しく多めにRTされて多くの人の目に触れたんですけど、フォロワー数は全く増えなかったんですね。それまで僕のツイートはそもそも埋もれてるからフォロワーもいいねも増えないんだと僕は思ってたんですけど、世間の目にある程度触れても特筆すべき違いは生まれない、世間的には僕はつまんない奴なんだっていう現実に直面せざるを得なかった。今だったら、たとえ面白いと思った人でもフォローするとは限らないとわかるんですけどね。」

 

まなか「フォロワー数やいいねの数が本当の面白さを反映してるわけじゃありませんから…」

 

わいせ「まさに、今仰った点が大事なポイントだと思うのです。ツイッターで価値のあることを呟いてても、いいねの数がその価値に比例するわけではない。その通りだと思います。その上で、まなかさんが先ほど仰ったことをツイッターに当てはめると、自分が面白いと思うことを呟くべき、こうすればいいねが増えるなとか考えているようではダメ、でもその上でやはりバズることを目指すべきという事になるかと思うんです。」

 

まなか「ツイッターはつぶやくのも読むのも無料ですし、いいねを付ける意味も、人とかそのツイート内容によって変わりますよね?これは『オモロイ!』のいいねだけど、こっちは『わかるわ〜』のいいねだとか。『感動した!』とか『かわいい!』ってのもあるし、『ムカつく!』で付ける人だってもしかしたらいるかも。いいねの数は評価の目安としては使えなくないですか?」

 

わいせ「そうですね、まず人の評価を気にするべきかという論点がありますが、仮に気にすべきだとしても、ツイッターのいいねとかRTとかフォロワー数は評価の指標にはならないから、結局バズることに価値などないということになると思います。」

 

まなか「バズることに価値が全くないとまでは私は思わなくって、例えば私がリトグリの曲を宣伝するためだけにツイッターをやってたとしたら、ある意味どんな手を使っても拡散すればするほど、もともとの目的を達成することに繋がっているわけですから、そういう場合はRT数やフォロワー数はほぼそのまま価値を持ってくるって言っても間違いじゃないように思います。でもわいせさんのアカウントはそうじゃないですよね?」

 

わいせ「そうじゃないですね。思いつきを垂れ流してるだけの僕みたいなのがいいねの数とか気にすること自体、本来は阿呆らしいんですよ。結局、フォロワー数が600だか700だかを超えた辺りから、何人からいいねされたかとか誰からいいねされたかとか全く気にならなくなりました。今では通知欄の『いいねされました』はほとんど見ていません。」

 

まなか「実際見きれなくないですか?」

 

わいせ「いえ、見ようと思えば全然余裕でチェックできる数です。見きれないのではなく、いいねを気にしたくなくて見ないようにしてるんです。以前は、中身空っぽなのにいいねがたくさん付いてるツイートを見てムカついたり嫉妬したこともありますけど、今ではそんな暇があったら今よりもっと楽しい冗談を考えたいと思えるようになりましたね。」

 

まなか「これは多分ですけど、今わいせさんがいいねの数を気にしなくて平気になったのって、いいねがそれなりに付くようになったからじゃないですかね。」

 

わいせ「それはあると思います。逆説的ですね。」

 

まなか「あと、これも多分ですけど、いいねが欲しくてたまらなかった期間があるからこそ今があるってこともあるんじゃないですか?」

 

わいせ「えっ、そういうふうに考えたことはなかったですね……!いろいろ頭を使って工夫するようになって成長できた、みたいな事ですか?うーんどうだろう、自分ではいいね欲しさの努力はしてきたつもりはないかなぁ…ツイッターっぽいリズムで文章を書くようには心がけるようになったかもしれないです。ツイッターって独特の文体というか文のリズムがあるんですよね。」

 

まなか「自分らしさを出すことには変わらないけど、ツイッターに合う形で出せるようになったっていうことじゃないですかね?私たちもリトグリならではの歌声を届けようという努力は変わらないけど、その届け方はその時代とか条件を反映させたものでええやんって思ってやってますよ。」

 

(続く)

 

 

 

 

 

わいせvsまなか その1

「これからは若い世代の声に耳を傾けていきたいと思っている。」わいせっつー氏はそう言って、次の対談相手に驚くべき相手を指名した。今をときめくLittle Glee Monster(通称リトグリ)のmanakaこと福本まなか氏である。何寝ぼけたこと言ってんだ殺すぞとスタッフ全員が思ったものの、あの姫川ゆうなさんも会ってくれたのだからもしかしたら、とダメ元でオファーしたところ、なんと超多忙なスケジュールを調整して会ってくださった。3月、都内某所で、世界に羽ばたく若き天才と、やつれたサラリーマンが邂逅した。(※この対談は妄想でありフィクションです)

 

わいせっつー(以下、わいせ)「お忙しいところホントすみません!」

 

福本まなか(以下、まなか)「初めまして、今日は宜しくお願いします」

 

わいせ「正直、まさか会っていただけるとは思いませんでした……事務所的に大丈夫ですか?」

 

まなか「めっちゃ反対されましたね(笑)」

 

わいせ「やっぱり(笑)」

 

まなか「だって名前からしてヤバイじゃないですか。メンバーもツイート見て『うわ、なんなんこの人?!』『下ネタしか言うとらんやん絶対ヤバい人やって!』みたいな反応でしたよ。全力で止められました。」

 

わいせ「それ普通だと思います。それなのになぜ会ってくださることにしたんですか?」

 

まなか「下ネタをいうこと自体は褒められたものではないかもしれないけど、1つのことにひたむきに打ち込んでいるという意味では、私たちと同じかもわからんなって思ったんです。」

 

わいせ「そんな…嬉しすぎますね」

 

まなか「対談することになってツイート読ませてもらいましたけど、なんか意味がよくわからないものとか、とにかくキモいのとか、正直ありました。でも、なんていうんやろ、モーメントで数年前のツイートも見ましたけど、今と変わってなくて。」

 

わいせ「成長しない男…」

 

まなか「いい意味でですよ?私たち2014年10月がメジャーデビューなんですよ」

 

わいせ「そうなんですね!僕がわいせっつーを始めたのも2014年です。12月ですね。」

 

まなか「私たちメジャーデビューから本当にいろいろあって…そんな中で原点を忘れずに今日までやってきたという思いがあるので、同じような時期に生まれたアカウントが原点を忘れずにやってきているっていうことで、共感できる部分は……ないわけではない、ある事はあったんです。」

 

わいせ「もったいなきお言葉です。もちろん僕のくだらないドスケベな冗談と、日本が世界に誇る唯一無二の歌声とでは、同列に語るだけで怒られてしまいますけどね…ところで、原点を忘れないようにという話がありましたけど、デビュー当時と今で変わったことと変わってないこと、ありますか?」

 

まなか「私たちは複数の歌声でやっているので、一人一人が自分の個性で歌を届けようというのと同時に、一緒に声を出したときにどう聞こえるかということはすごく意識してますね。それはデビュー当時から変わらないです。でも、私自身デビューしたての頃はまだ『いかに上手く歌うか』という意識が強かったですね。音程とかリズムとか。もちろん表現のことはデビュー前から考えてましたけど、経験を積んで、『この歌をどう表現するか』『どう届けるか』という事をそれまで以上に考えるようになりましたし、それに対応する引き出しも増えました。」

 

わいせ「なるほど…やはり次元が違いますね。かなり小さい頃から人前で歌を歌われてらしたんですよね?子供の頃はどんな感覚で歌をとらえていたんですか?」

 

まなか「そうですね、小学生の頃には地元のイベントで歌ったりしてましたね。中学生のときには一人でテレビに出たりして…リトグリに入ったときも中学生でしたけど、ちっちゃい頃から歌うのが好きで、楽しくて気持ちいいから歌うっていう感覚だったと思います。なにかを届けようとかは最初はなかったかな。わいせっ……名前言うのちょっと恥ずかしいですね〜(照)…わいせさんは、小さい頃からえっちなことばっかり言ってたんですか?」

 

わいせ「まぁー言わないわけではなかったですけど、下ネタばっかりってことはなかったですね。少なくとも大学入るまでは、男友達にすら『ちんこ』とか言ったことないですよ。あ、スミマセン……」

 

まなか「大丈夫です。一応覚悟してきましたから。でも私のことをえっちな感じでイジるのはNGです……マネージャーさんからも伝わってると思いますけど。わいせさん自身の話なら大丈夫ですよ。」

 

わいせ「わかってます!今もすぐそこで僕を鋭い眼光で監視してるマネージャーさんにキツく言われてますから!」

 

まなか「わいせさんの原点はなんですか?ツイッターでこういうことをしようという、そもそもの始まりというか」

 

わいせ「インターネットで冗談を言っていきたいという思いは前からあったのでいろいろ試していたのですが、ツイッターっていいんじゃないかなって思ったものの、思いついた冗談をただ漫然と呟くのはダメだろうって思いまして。それじゃ埋もれてしまうから、何か他の人と差別化を図りたいという思いがありました。そこで、1つのテーマに限定して呟こうと決めたんです。音楽とか映画とか何でもよかったんですが、ネタ切れを起こすこともなく、一番冗談として汎用性が高いものという事で、性欲縛りというのを最終的に決めました。」

 

まなか「そうなんですね!ちょっと意外でした。」

 

わいせ「意外ですか?」

 

まなか「たぶんほとんどの人は、わいせさんのツイートを見て『あーこの人はめっちゃエロいこと言いたくて仕方がないんやろな』って思うと思うんです。でも今のお話だと、エロいこと言うぞーってのがスタートではなくて、他と違うことしようって考えて、戦略としてエロいことを選んでますよね」

 

わいせ「そういう側面はありますね。まなかさんは、もちろん他と差別化するために歌を選んだのではなく、『私には歌しかない…!』という想いだったわけですよね。」

 

まなか「そうですね、私にとって歌はとって特別なところに位置してますね。でもいろんな事に興味はあるんですよ。ギター練習したりとか。でも、音楽以外のことも含めて、どんな事でもプラスなことが歌に返ってくると思ってます。人生のあらゆる経験が全部歌に返ってくるなって実感してます。」

 

わいせ「僕も日常のあらゆる材料がツイートの元になっていますね。もう長いことやってるんで、ありがちなエロい話とか、どっかでコレ聞いたなってなっちゃうんで、エロと全然関係ないものの方が発想のスタートとしてはいいんですよ。たとえば…ここにコンビニのサンドイッチがあるとしますよね、そしたら『サンドイッチ×性欲』でなんか書かないかな……って思うわけです。そういう方が浮かびやすい。」

 

まなか「じゃあ、年がら年中エロいことばっかり考えてるからこその性欲縛りツイッターというわけでは、必ずしもないんですね」

 

わいせ「それは♪Yes and no〜Yes and no〜ですね(編集部注:リトグリの『私らしく生きてみたい』の一節を口ずさむ)

 

まなか「(笑)ありがとうございます」

(続く)(第2回)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エロコンテンツは女性の地位を貶めない、むしろ高める。

  このブログ記事は、“男性向けのポルノやセクシーなグラビアなど(以下便宜的にエロコンテンツと呼ぶ)が女性の社会的地位を貶めることに繋がっている”というような指摘がいかにおかしいかを論証し、むしろエロコンテンツは女性の社会的地位向上に貢献する存在になりえると提唱する文章である。 本稿では第1節で、いったんエロコンテンツの話から離れて女性の社会的地位を貶めているものは何なのかを探る。第2節で「エロコンテンツは一般的に女性を貶める」という説を反証し、第3節では、エロコンテンツがむしろ女性の社会的地位を向上させる可能性を指摘したい。 

 もちろん筆者は女性向けポルノの存在を認識しているし、それが女性の社会的地位にもたらす影響を論じるのは興味深いが、ただでさえ論点が拡散しすぎているので、ここではあくまでも男性向けのポルノやセクシーグラビアだけを「エロコンテンツ」と定義したうえで、男性を喜ばせるエロコンテンツと女性の社会的地位との関係に焦点を絞ることとする。

 

第1節 女性の社会的地位を貶めているのは何なのか

  • 結果の男女平等を目指すことはかえって女性の自由意志を阻害する

 日本における女性の社会進出は欧米諸国と比較して遅れているとしばしば指摘されるが、その手の社会数値指標は単純に国会議員や企業の幹部に女性が占める割合といった結果の平等を計測していることが多い。日本では教育の機会は男女平等に与えられているし、女性が国会議員や企業の幹部になる上で障害となる法制度はない。むしろそのような地位を目指す女性たちが一様に口にするのは制度的な障害ではなく「ガラスの天井」と言われるような見えない差別である。だが、「ガラスの天井」は“上昇”を志向した者だけがぶつかるものである(議員や幹部を目指すことを“上昇”と呼ぶべきなのかはともかく)。「ガラスの天井」にぶつかる女性だけに着眼しても社会全体の男女平等を論じたことにはならない。たとえば、もし国会議員になりたいと思う人が女性には0.01%しかいなくて男性には0.1%いたとしたら、たとえ男女平等が実現した社会においても国会議員の男女比は半々にはならないという事である。

  では国会議員を目指す女性を増やすべきか?社会全体の利益という視点で見れば、女性の意見が国会にもっと反映されるように女性議員を増やした方がいいだろう。だが個々の人生という視点から見ればそうとも限らない。職業選択はその人の生き方の問題なので、周りが「女性の地位向上のためにあなたは議員を目指しなさい」と言うわけにはいかない。

 つまり、結果の平等だけを目指すことは個々の女性の自由意志を軽視することになり、かえって女性の地位を低下させるということである。結果平等主義が主張に通底する論者はフェミニストの皮を被った女性の敵であるということは、ここではっきりさせておく。

 

  • 2種類の非制度的バリア ~「歩きだした結果ぶつかる壁」と「歩き出せなくしている壁」~

 女性を公然と差別する制度が存在しない社会では「ガラスの天井」などの目に見えない障害、つまり非制度バリアの解消に取り組むことが望ましい。

  「女なら結婚したら家庭に入って仕事をやめろ」「家事や育児は女がやるべき」「その歳でまだ良い相手もいないのか」「女のくせにはしたない、慎ましくしろ」女性ならこれらの不当な圧力を公然とかけられた経験があるのではないか。これらのジェンダーバイアスが、制度とは異なる次元で女性の可能性を抑圧するのである。

 国会議員の例えで言えば、自分の意思で議員を志したのに「女のくせに男にたてつくのか、やめておけ」「女に政治は無理だ」などと言われて、男なら得られていたであろう支援が得られなかったとしたら、これは非制度的バリアだ。

  ただ、この手のバリアは、一度自分の意志で茨の道を歩むと決意したという意味では、本人が頑張りで困難を突破していくことが十分ありえる分まだマシである。これが「歩き出したためにぶつかる壁」である。

 より深刻なのは「歩き出せなくしている壁」の方である。なぜならそれは社会レベルと個人レベルの両方で女性を抑圧しているからである。「歩き出したためにぶつかる壁」は結果の不平等をもたらし社会レベルでの女性の地位低下に繋がるが、それでも個人の自由意志の発露を許している。一方「歩き出せなくしている壁」は後者さえも封じ込めているのである。

 「歩き出せなくしている壁」の正体は「ロールモデルの不在」と「ジェンダーバイアスのかかったモデルの遍在」の2点である。次で詳しく見ていこう。

 

 ロールモデルというのは職業に限った話ではないのだが、わかりやすくするため職業で例を出してみる。我々には職業選択の自由があるが、自由があるというだけではどんな職業にでもなれるわけではない。知らない職業にはなれないからである。

  かつて海上保安庁は一般にさほど知られていなかったし、聞いたことはあるという人からも海上自衛隊とゴッチャにされたり、警察組織の一部と思われたりしていたが、漫画「海猿」のヒットと映画化により認知度が飛躍的に向上し、今や潜水士などは憧れの職業として女性にキャーキャー言われたりもしている模様だ。エンタメが子供たちに職業あるいはもっと広い意味での大人としての在り方のモデルを提示し、子供たちは無意識のうちにそれを取り込んで大人ステージでの選択肢を考えていくというパターンの好例が「海猿」なのである。

 漫画でいえば「YAWARA!」という作品もある。それまで柔道といえば武骨な男のスポーツであり、それを敢えて女性がやるという女子柔道は明らかにマイナースポーツの類いだったのが、この作品によって世間からの認知がまるで変わったことは周知のとおりである。この作品がジェンダー論の文脈からみて非常に興味深いのは、それまで「お前は女三四郎だな」と呼ばれていた女性柔道家が「君はヤワラちゃんだね」と言われるようになるという変化をもたらしたという点である。これは、男性の亜流(「女」+「三四郎」)としてしか定義しにくかった女性柔道家を、男性のコピーではなく女性単独でオリジナルな存在として確立させる上で、漫画「YAWARA!」がロールモデルとしての役割を果たしたということである。

  わかりやすいよう漫画を例に出したが、ロールモデルというものはエンタメでなくても構わないし、むしろ伝統的には家族などの身近な存在が典型的なロールモデルにあたる。そもそもロールモデルがあって初めて人は何かを目指そうと思えるということになるのだから、ロールモデルの不在は、制度的な障害の有無以前の段階で、自由意志の発露や十分に潜在能力を発揮することを妨げることになる。したがって、女性の可能性を様々な方向に発揮するためのロールモデルが男性のそれよりも圧倒的に少ない社会は、女性を貶める社会構造を持ってしまっているといえるだろう。

 

 「ロールモデルの不在」が「マネしたいお手本がないという問題」ならば、「ジェンダーバイアスのかかったモデルの遍在」とは「マネすべきでないお手本しかないという問題」である。

 テレビ番組や本、雑誌、インターネットコンテンツなど、様々なメディアの中に、女性は当然こうすべきである/こうすべきではないといった言説や、それを前提にした設定・描写があふれている。わかりやすいようにまた漫画を例に出すが、「クッキングパパ」という漫画がある。「クッキングママ」という漫画は成立しえない。ママが料理をするのは当たり前で、料理をするパパは珍しいという前提があるからこそ成立するタイトルである。

 しかし「クッキングパパ」だけを槍玉に上げるのはフェアではないと言えるくらい、より一般的なジェンダーバイアスはそこかしこに満ちている。もちろん、それは一概に悪いこととは言い切れない。すべての物事を完全にフェアにすると、いかなる発言もできなくなるし、物事を単純化して区別することでこそ人間の世界観は整理されるからである。ただ、ここではそういう原理的な話ではなく、ジェンダーバイアスが商業と結びついているという点に着眼すべきである。例えば、「女の子は可愛くなろう」「素敵な恋愛をしよう」といったメッセージは、一見すると多くの女性が生まれながらにして持つ内発的動機を外界が単にエコーしているだけのようにも思えるが、実際はそのような価値観を前提にしたエンタメが多くの商業広告とともに押し寄せてくることで、我々はそのような行動に向かわされているのである。テレビや雑誌やインターネットなど、そして広告が一切ない社会をイメージしてみてほしい。そこでも女性は今しているのと同じ口紅を求めて店を探し歩き回ったり、フルーツの乗ったパンケーキと一緒に収まった写真を撮って現像し友達に見せて回ったりするだろうか。我々が自然と見聞きするものの中に、女性はこのように行動しましょうという「指図」が溢れている。我々がそれに振り回されずに自由意志を発露しようとしても、女性はこうすべきという枠組みが取っ払われた発想をすること自体が難しい。

 

  • 第1節まとめ

・平等には機会の平等と結果の平等があるが、結果の男女平等を追求することはかえって女性の自由意志を阻害する。

・機会の男女不平等を生む原因には制度的バリアと非制度的バリアがあるが、日本では目立った制度的バリアはないので、非制度的バリアに取り組んだほうがいい。

・非制度的バリアのうち、女性とはこうあるべきという枠組みに囚われずに行動した人がその結果としてぶつかるバリアもあるが、自分の意志で動き出している分解決の見込みは高いだけマシ。そもそもそのような枠組みに囚われた発想からしかスタートできないというバリアの方が問題。

・後者の非制度バリアの正体は、ロールモデルがいないことと、ジェンダーバイアスのかかったモデルしかいないこと。

 女性が子供の頃からこれらの2つの要素から成る「歩き出せなくしている壁」に晒されて育つ以上、女性の社会的地位の問題は再生産され、踏み固められていくのである。(もちろん、これと全く同じことが男性にも言えるが、本稿ではエロコンテンツが女性の生き方に与える影響を論じるのが目的なので、男のジェンダーバイアスについては追求しない。)

 

第2節 エロコンテンツは女性の社会的地位を貶めるものに該当しているのか

  • 子供の男女観はAVによって作られてはいない

 AVやエロ本には女性に対する「歩き出せなくしている非制度バリア」が存在することへの責任があるのだろうか。答えは当然NOであろう。そもそも子供はAVもエロ本も見ていないという点に留意する必要がある。勿論ちらっと見ている子もわずかにいるだろうが、そのような微々たるケースよりも圧倒的にエロコンテンツ以外の要素の方が子どもの男女観に与える影響が大きいだろうことは誰でもわかるだろう。子供の頃から「歩き出せなくしている壁」に晒されて育つことが女性の社会的地位の問題を再生産していると第1節の終わりで述べたが、原則として子供の目に触れないエロコンテンツは、その過程において主要な役割を果しえないのである。

  • 女性だけを描いたエロコンテンツで男女の役割分担の平等性を論じることの愚

上記の一点だけで十分に論破可能なのだが、一応もう少し丁寧に論じる。まず、エロコンテンツはそもそも何らかのジェンダーモデルを提示しない。エロコンテンツは、ひたすら女性を中心に描きながら男性に訴求するという特殊な構造をしている(この記事においてエロコンテンツは男性向けのみを指すことを想起されたい)。AVには男性も登場するが、それはオナニーをする上で便利なように便宜的に道具として登場しているだけであり、ユーザは男性を見たくてエロコンテンツを見るわけではない。したがって、エロコンテンツの中で女性が何らかの職業や社会的役割を演じていたとしても、それは男女ともにいる中であえて女性に積極的に割り振られたものではなく、エロコンテンツにおける事実上唯一の登場人物である女性がそれをやっているに過ぎないという点に留意する必要がある。

例えば「AVを見たら裸エプロンの女性が料理をして、男は手伝わずに食事していた!これは男女差別の温床だ!」と文句を言う人はいないだろう。エロの観点から女性に裸エプロン姿になってほしくてそういう演出をしているのだから、男性が料理するはずはない。男性が料理したら男性が裸エプロンをしなければならなくなるが、そんなものは誰も見たくない。

言い方を変えれば、エロコンテンツにはジェンダー的に適切なロールモデルが登場しえないのである。それを批判することは、女性更衣室に男性トイレがないことを怒るようなものである。

その上で、「エロコンテンツにはジェンダーバイアスのかかったロールモデルしか登場していないから問題である」という指摘についても念のためカバーしておく。まず、仮に女性が特定の役割ばかりをエロコンテンツの中で果たしたとして、それはAVが発明したり発達させた文化ではなく、ドラマや漫画といった非エロメディアで構築されたフォーマットを踏襲しているだけである。そういった見慣れた設定にこそエロを感じるから製作者がそのような設定を選んでいるだけであって、非エロメディアがジェンダーバイアスから完全に解放されればエロコンテンツも自然とそうなるはずである。

たとえば、先日見たAVでは風邪をひいた男性社員のところに女性同僚がお見舞いに来て家事をしてあげるという設定が登場したが、そのような設定が採用された背景として、世の中の男性には「自分が弱っているときに自分の面倒を見てくれる女性にグッとくる」というエロとは無関係の認知が先に存在していて、そのツボをくすぐるために後からそれを踏まえたAVが作られたのであって、順番はその逆ではない。

 つまり、非エロコンテンツがジェンダーバイアスのかかったストーリーや設定だらけである時に、それらを責めずに、単にそれらを模倣もしくは流用しているだけのエロコンテンツだけを取り上げて責めるのはお門違いである。

  • 第2節まとめ

・そもそも子供はエロコンテンツを見ないので、人はエロコンテンツを通じて女性を貶める社会認知を獲得すると思うのは間違い。

・また、エロコンテンツは基本的に女性のみを登場人物にしているので、エロコンテンツにおける男女間の役割の差異を論じること自体が無意味。

・エロコンテンツにジェンダーバイアスがあったとしても、それは必ず非エロ発祥なので、エロコンテンツを責めるのは間違い。

 上記のことからも、ロールモデルの不在やジェンダーバイアスのモデルの問題がエロコンテンツとは無関係であることが明らかである。したがって、エロコンテンツが女性の社会的地位を貶める存在であると主張することは詭弁であることが十分に明らかになった。

 

第3節 女性の地位を高めるエロコンテンツ

 これまでエロコンテンツが女性の社会的地位を貶めている戦犯だという説は濡れ衣であることを論証してきたが、ここからは一歩進んで、むしろエロコンテンツは女性の地位を高める存在ではないかという仮説を立て、その根拠となりうる視点をいくつか挙げてみたい。

 

  • 女性なくして成り立たない業界を育てるという視点

 男性の性欲を満たすために女性の性が搾取されているのがエロコンテンツ産業であるから、エロコンテンツの存在自体が悪であるというのは、たまに急進的なエセフェミニストが主張する立場である。だが、エロコンテンツ産業に女性を不当に害する側面が見られがちであるということと、エロコンテンツ産業をなくすべしという議論は全く別のものであることは明確に述べておきたい。

 エロコンテンツ業界の一部に見られる、女性を不当に害する行為の代表的なものとして「困窮者、知的障碍者、知識や経験の浅い子供などの社会的に弱い立場にある女性をその弱みに付け込んで性的搾取の対象とする」「性の自己決定権がないような幼い子供を性的に搾取し肉体的精神的に取り返しのつかないダメージを与える」「不当な契約を巧みに結ばせたり、親や学校・職場へバラす等の脅迫をしたりして本人の同意の範囲を超えて撮影や流通を行う」といったものがあるだろう。これらは断じて許されるべきではなく、“エロコンテンツに限らず”そのような違法行為や人権侵害をなくしていくべく国、企業、そして消費者がそれぞれの立場で努力していくべきである。

 逆に言えば、これはエロコンテンツに限らない普遍的な問題であり、そのような問題が存在するという理由でエロコンテンツ産業自体を女性に害をなすものを決めつけるのは合理的思考ではない。そのような短絡的な主張を受け入れるのであれば、人身売買や児童労働により不当な環境下で女児が収穫したカカオが存在するという理由で、チョコレート産業についても女性に害をなすものとして消滅を主張せねばならなくなる。現にダイアモンド利権の奪い合いにより一部アフリカ諸国で深刻な人道危機が見られた際に、そのような経緯で製造されたダイアモンドを「血塗られたダイアモンド」と定義して市場から排除する試み(いわゆるキンバリー・プロセス)がなされたが、エロコンテンツ全体が悪だと決めつける人たちは適切な人権環境で製造されたダイアモンドも含めすべて拒否して生きているのだろうか。「AVなんて汚らわしいざます!」と顔をしかめるエロコンテンツ全否定オバサンがいたら宝石箱を開けて見せてもらいたいものである。

 これは非常に重要なポイントだと思うのでそのつもりで読んでもらいたいのだが、エロコンテンツの構造を「男性の利益のために女性が利用される」という図式でしか理解しないこと自体が女性を“舐めている”行為だということにエロコンテンツ否定派は気付くべきである。セックスに関する事象において女性は主導権を握れるような大した存在ではないという偏見を内在化しているから、エロコンテンツが女性の隷属のように見えてしまうのである。女性を擁護しているつもりで、自身の女性差別をはからずも露呈してしまっている論者は多い。

 不本意ながら身体を売らざるを得なくなったお金に困った女性がエロコンテンツの供給源であった時代はあったかもしれないが、現在エロコンテンツで活躍している人たちがAVやグラビア以外の場で語る内容を見れば、彼女たちがグラビアやAVの仕事を主体的・能動的に捉え、自分なりの工夫や努力をして成長し、それを商業的価値として認識できるレベルまで高めていることに誇りを持っていることがわかるだろう。エロコンテンツは、女性がその個性や才能をもって男性を魅了することができる業界なのである。彼女たちの表現の自由職業選択の自由を保護する視点が偽善フェミニストには欠落しているのである。

エロコンテンツにおいては、原則として登場人物は女性のみであり、男性が登場する場合もあるがあくまでも女性の魅力を鑑賞者が最適な形で受け取れるための道具として便宜的に登場するに過ぎないということを先ほど指摘したが、これは言い方を変えれば、エロコンテンツ産業は、適切な意思決定過程への関与や不当な契約の排除さえ確保できれば、圧倒的に女性が活躍するチャンスが多い産業ということでもある。単に自分がエロコンテンツが嫌いであるという情緒的な主観をさも一般的な問題提起であるかのように偽装している一部のエロコンテンツ否定派たちが、エロコンテンツで立身し生計を立てている誇り高きAV女優やグラビアアイドルの努力を矮小化し貶しめることを許してはならない。むしろ、女性が活躍できる場を増やすというフェミニスト視点からは、女性でなければ活躍できないエロコンテンツ産業を健全な業界として育てて保護していくことこそが正しい姿勢なのではないか。

  

  • 荒ぶる性欲をすべて女性本体が受け止めなくてもよくなったという視点

男性の性欲はなくせないし、なくすべきものでもない。なくしたら人類は絶滅する。したがって、性欲自体がダメという立場はとりようがないし、性欲は所与のものとして扱う以外にない。

そのうえで、エロコンテンツがない時代は、性欲は女性本人に直接ぶつけられてきた。50万年前にはAVも水着グラビアもなかったが、男性の性欲は当然あっただろう。男性の性欲が所与のものである以上、女性が全て受け止めるしかないではないかという認識が長い間存在していたものと考えられる。その一つの根拠となるものとして、夫婦間では性交渉を求める権利と応じる義務があるという法的な考え方がある。これは民法上で定義されているものではないが、性行為を合理的な理由なく拒否され続ければ離婚の事由となりうることは判例が示している。つまり日本の法的感覚においては、夫婦関係の持続において性行為は決定的な要素であるとの考えが許容されているということだが、これはこういうことでもある。つまり、「セックスしたいという欲望は無理もない!もちろん夫婦でもない相手とはできなくてもしょうがないな!でも夫婦ならセックスするのが当然だろう!だからセックスを求められたら基本断るなよ!」という考え方が背景にある。もちろん夫婦は人口の再生産のための枠組という側面があるので、単純に性欲の問題として論じることはできない。だがここであえて“性交渉要求権”に言及したのは、生物学的または社会的な子作りの必要性を抜きにしても、性欲は基本異性に向かわしめるものという認識が一般に許容されているということを示すためである。

 性交の性質上そのような認識が存在するのは当然であるが、エロコンテンツの登場により、それが必ずしも当然ではなくなっているという点をまず指摘したい。これまで問答無用で女性にその矛先を向けられていた性欲が、今や相当部分がエロコンテンツにぶつけられている。この事は、エロコンテンツがなかった時代と比べ、女性がひとりの人間として丁寧に見られやすくなり、ひとりの人格として尊重されやすくなる可能性を秘めているとは言えまいか。実際に現代社会がそうなっているかどうかの検証をするにはこの文章はすでに長くなり過ぎた。ただし、その可能性自体は確実に開けていることは間違いない。真のフェミニストであれば、女性の社会的地位向上を目指す戦いの長い歴史の中で、エロコンテンツの普及が前向きな意味でも革命的な出来事として位置付けられるべきであるとの認識を有しているはずである。

 

  • 第3節まとめ

 ・エロコンテンツ産業は女性こそが活躍できる場としての可能性を秘めている。

・エロコンテンツ普及以前には否応なしに女性本人にぶつけられていた男性の性欲をエロコンテンツが受け止めるようになり、女性が1人の人間・人格として認められやすい世の中になる可能性が開けてきている。

 情緒的にエロコンテンツに拒否感を覚える人がいるのはわかる。エロコンテンツ産業の一部において女性の人権侵害が行われていることも残念ながら事実である。だが、だからといってエロコンテンツそのものが女性を貶める存在そのものなのだと勘違いしては、その勘違いを隠れ蓑にしてほくそ笑みながら女性を食い物にして利益を得る真の黒幕の思うツボである。我々は、エロコンテンツに冷静な評価を与えることから始めようではないか。

 

おまけ

このブログは数人にしか読まれていないので問題はないとおもうが、今回はいつになく真面目なテイストで書いてしまったので、マジモンのフェミニストに見つかってボロクソに批判されちゃうかもしれないと思ってちょっとビビってる。そんなフェミニストの皆さんには僕のツイートをまず読んでもらいたい。そうすれば、相手をするだけ無駄なヤツだと気付いてもらえるだろう。